っしゃらない事。
「まあそんな事が有ったの。
さあ先月の始め頃って云うと……
ああそうそうあった事よあった事よ。大抵五六日頃でしたろう。
西洋紙に書いて有ったんじゃあなくて。
「ええそうよ、真白い紙で棒縞の透しのついたのだったわ。
「そんならきっとあれだわ。
あんなんならいくら見たってようござんすよ。
何にも彼の人の事なんか一つも云ってなかった筈だから。
「そう。其れなら好かったけれ共。
私の見たのは飛び飛びでまるで分らなかったから割合に心配してたの。
あれだわねえ、こんな事があると、今までどれだけ見えない所へ入れられちゃったか知れないわねえ。
ほんとにいやだわ、私。
「ほんとにねえ。
手紙をかくすなんてあんまり卑怯だわ。
そんな事をして楽しんで居るんですよ、彼の人の事だから。
人が困るのや工合の悪くなるのを見るのが彼の人にとっては此上なく面白い嬉しい事なのですからね。
私共で用心するばっかりだわ。
「用心するってどうするの。
仕様がないじゃあないの。
「そうだけれど、まあそうっと彼の人の気を悪くさせない様に仕[#「仕」に「(ママ)」の注記]するのです。
彼の人の事なんかは書いてあげない様にするの。
「そう、
そうするより外仕様がないわね。
だけれどつまらないわ。
「何が?
まあとにかく、あんまり煙ったい事許り見ると、益々ひどく当る相手は貴女一人なんですもの。
なるたけじいっとさせて置くのが好いんですよ。
此頃よりひどく成って行ったらほんとうにたまったもんじゃあありませんよ、貴女一人で。
どうかして丁度貴女が居る時にいきなり貴女の手に飛び込める様に手紙も利口になって呉れるといいけれどねえ。
私共でさえこんな馬鹿なんだもの、それに書かれる手紙がそんなに利口で有ろう筈もなし。
[#ここで字下げ終わり]
終りの言葉を※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子がさもヤレヤレと云う様な何となし滑稽な調子で云ったので結び掛って居た二人の心は又元の通りの明るさに立ち帰る事が出来た。
けれ共其れが緒に成ってお久美さんは段々淋しい話に許り向いて行った。
[#ここから1字下げ]
「私ほんとうにね、尼さんにでも成って仕舞う方が今よりはどんなにか好いと思うの。
「どうして?
尼さんてそんなに好い者だと貴女は思ってるの?
「そんなに好いとは思いやしないけれどね。
今よりは増しだと思うわ。
一年ましに伯母さんはひどくなって来るし、
どこにどうして居たって私はつまり不仕合せな人間なんだから。
「じゃあ何の尼さんになるの。
「何のってなあに。
「まあ、貴女の所じゃあ此頃キリスト教を信じて居るんでしょう。
だから仏様の尼さんかキリスト教の尼さんかってきくんです。
貴女成るんならどっちになるの。
「あら厭だ、私、
あんなキリスト教の尼さんになんか成りたくもないわ。袋みたいな黒い着物を着てる人でしょう。
衣を着た仏様の尼さんの方が余程好いわ。
私なるんなら仏様の尼さんだわ。
「貴女仏様って何だか知って居て?
[#ここで字下げ終わり]
年若い女に有り勝の何の根拠もない様に軽々と死にたいとか尼さんになりたいとか云う通りにお久美さんまで他人の話をする様な口調で「私成るんなら仏様の尼さんだわ」等と云って居るのを聞くと※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子はフト不愉快な気持になった。
此の出し抜けの問いは余程お久美さんをまごつかせた。
気を計り知れない様に※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の方を一寸見て下目をしたっきりお久美さんはだまって仕舞った。
当惑した様な頼りない様な顔を見ると※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は気の毒になって優しくお久美さんの手を取りながら、
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「尼さんが好い等と云う事はね。
はたでそう分るものじゃあありません。
尼さんになったって貴女はやっぱり人間の女じゃあありませんか。
尼さんになった日から何にも思わず好い事だらけだと思うのはあんまりよく考えすぎてますよ、ほんとに。
そりゃあね、子供の内から頭を丸めてお経で育って来た人は別です。
私や貴女位の年から辛い逃場所にお寺をしたって一年と辛棒がなるもんですか。
きっと、貴女なんかは其の立派な髪に剃刀が触る時にああ飛んだ事をしたと思うにきまってます。
そりゃあ私、受合いだ。
[#ここで字下げ終わり]
と云って笑った。
お久美さんもつれられて微笑はしたけれ共何だかわだかまりの有るらしい様子で、
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「でも私どうにかしてもう少し楽になりたいわ。
此頃の様じゃあたまらないんですもの。
[#ここで字下げ終わり]
と鼻声になって云った。
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「ええそりゃあそうでしょうって。
そりゃあ私にだってよく分って居る事よ。
どうかして好い事は無いかと思っては居るんですけれどね、何にしろ私は今何の働きもない寄生虫なんですからね、思う様に事の運べないのはあたり前でしょう。
貴女の苦しい事も辛い事もよく分って心配しながらどうも出来ないで居るんだから私だってそりゃあ辛い。
だからね、貴女も私もどうしてもそう外仕様がない時にはそこで出来るだけの事をして居る方がいいじゃあないの。
今の私で出来るだけの事を私は貴女にしてあげる。
「ええほんとにそうね。
私だって貴女がいつでも云っておよこしなさるからそうは思っても此れから先の事を考えるともう何にもするのがいやに成って仕舞うのよ。
私が一生懸命して居ても報って来るものったらいつだって同じ大きな声で怒鳴られる事なんですもの。
仕栄がないのもあたり前じゃあないの。
「そりゃあそうでしょうねえ、ほんとに。
だけれ共一生貴女は彼んな人の傍について居ずとも好いんだからこれから先の事を好く思って居る外ないでしょう。
皆な人間はそれで生きて居られるんですものねえ。
「そうねえ。
だけれど彼の人は一生私を離さない積りで居るんでしょう、きっと。
「どうしてまあ。
まさかそんな事は無いでしょう。
「いいえ、そうらしいの。
それも近頃なんだけれど、
ヒョッとした事で私知って仕舞ったのよ。
伯母さんは私を片輪だって云い歩いたんですって。
ほんとに私あんまりだと思った事よ。
山崎のお婆さんが、私は嘘だと知って居るからと云って教えて呉れたの。
「片輪だって?
まあ、片づけないようにそう云ってるの。
ほんとにそれじゃああんまりひどい。
「ですもの知らない人はまさか伯母さんがと思うからほんとだと思って仕舞うじゃあないの。
そんな事までして私の邪魔を仕様仕様として居るんですもの……
有りもしない事云われちゃ亡くなった母さんや父さんにだってすまないわ。
[#ここで字下げ終わり]
お久美さんは静かに涙をこぼして居た。
※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は何と云って好いか分らなくなった。
そんなにしてまで若い女を虐めずには居られないお関が此上なく憎く醜く思われて来ると共に、此那《こんな》に打ち明けて頼りにされて居る自分は又他人から世話にならなければならない年で、物質の助力は勿論、精神的にだって、そのためにどうと云う程の力添えも与えられないで居る事がどれ程不甲斐なく恥かしく思われたか知れない。
まだ経験のない一日一日と育つ盛りにあるかたまらない考えでお久美さんを動かして行くと云う事は、まるで性質も之からの行き方も違って居る※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子には不安の様でも不忠実の様でも有ったので、いつでもお久美さんの仕様と云い出した事を判断して居た。
自分で自分が頼り無くて※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は青白い頬に涙を伝わらせた。けれ共お久美さんはじきに涙を止めて云い出した。
[#ここから1字下げ]
「恭がね、
そりゃあ私に親切にして呉れるのよ。
あんまり伯母さんが甚いってね。
そいでこないだも一寸云ったんだけれ共、
自分の家が信州に在って去年父親が亡くなって一人ぼっちで居る阿母さんが淋しがって、帰って来い来いて云って来るんですって。
だから自分は近々に帰るつもりで居るからお久美さんも一緒に行らっしゃいって云うの。
自分こそこんなにして居るけれど家ではちゃんとして居るからちゃんとお嬢さんにして好い様にしてあげますからって云うんだけれども私そんな事出来るこっちゃあないって断わったのよ。
変ですものねえ。
「まあそんな事云ったの。
ほんとにそんな事出来る事《こ》っちゃあない。
恭だって高が雇人じゃあ有りませんか。
どんな素性だか分りもしないのに……
恭も亦あんまりですね。
仮にも主人の貴女にそんな事まで云うって。
貴女恭は親切だってよく云うけれ共、一体ほんとに親切なの。
あぶないじゃあないの。
「ええ、そんなにこわい声を出さずと好い事よ。
誰もあれの云う事なんか真に受けないから。
だけれどね、親切は親切だ事よ。
いろいろ力をつけて呉れるわ。
それに学問も有るんですものね。
「学問たって中学を出た位なもんでしょう。
「いいえそうじゃあないの。
どっかの工業学校へ入った年に病気で落第したら頑固な父さんがあんまり怒るもんで自棄《やけ》になって家を出て仕舞ったんですって。
だから可哀そうな所もあるわ。
何だかむずかしそうな英語の本も持ってる事よ。
「そりゃあそうかもしれないけれどね。
あんな人に貴女が頼らずと好いじゃあ有りませんか。
それに恭のほんとの心は知れませんからね。
表面は好い様なおべんちゃらを並べて心じゃ何と思って居るか分りゃあしない。
又恭がそう真面目に思って居たって周囲の人は単純にそれ丈の事として見るものじゃあ有りません。
何にもしないで食べる人を一人世話する事はなかなかなんですからねえ、いくら田舎でもしっかり仕なきゃあだめですよ、ほんとに、お久美さん。
「ええ大丈夫よ。
何ぼ私だって、そんな嘘のような言葉を信じるもんですか。
「いいえ、そう今は云ってますけれどね。
人って妙なもので始終始終顔を見て居るとどんなに始めはいやだと思った人でも気にならなくなる様なもんだから、あんまり云われると、つい気がぐらついて来ないもんでも有りませんよ。
貴女みたいな暮しをして居る人は、しっかり自分と云うものを分らせて居なきゃあいけないわ。
どんなにお関にひどくされたって不仕合わせだって、ちゃんとしたお嬢様なんだもの。
雇人風情に情けをかけてもらいたい様な、又同情されたい様な様子を決して仕ちゃあいけませんよ。
しゃんと御主人らしくして居なけりゃあいけない。
向うから気の毒に思って呉れたら只それだけを受けて居れば好いんですよ、ねえ、お久美さん。
なさけに餓えて居る様な素振りを一寸でも出してはいけませんよ、ほんとに。
質の悪い者なら皆そんな所へ足掛けをつくるんだから。
[#ここで字下げ終わり]
※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は此村の若者の中では何方《どちら》かと云うと目に立つ程調った容貌と言葉を持っている二十三四の恭吉の姿を思い浮べながら、単純な頭で其を見て種々に感じて居るお久美さんを不安に思い出して来た。
※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は、
[#ここから1字下げ]
「私をそんな馬鹿だと思ってるの。
[#ここで字下げ終わり]
とお久美さんが云うまで幾度も幾度も繰返して「不仕合わせだと云って卑屈になってはいけない」とか「自分はちゃんとした位置の者だと思って居なければいけない」とか心配そうに云って居た。
身動きもしない様にして二人は日影が傾むくまで草に埋まって話をして居た。
五
お関の嫉妬深い事は此の村でも有名であった。
山田の主人に用談が有ってもお関を通じてでなくて
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