に写った事だろう。
お久美さんが少許の間を置いて静かに話し出したまで、ほんの一二分の間に、※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は今まで生れて此方一度も感じた事のない様々の思いに、熱くなった頭が、自分の云った事さえ後から思い出せない程、ごちゃ混に彼も此も攪き乱されて仕舞った。
お久美さんの顔を見た瞬間に、「済まない」と云う気持が電光の様に※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の眼先に閃いた。
せわしい中から丹念に寄こして呉れる便りにも、兎角返事が後れ勝ちで有ったと云う事、お久美さんはきっと、一日の大部分の時は私の事を頭の何処かには置いて居て呉れたのだろうが、自分はいくら頭を使う事が多いとは云え、殆ど一日中お久美さんの名の一字さえ思い出さぬ時が決して少なくは無かったと云う事、まだ其外いくらもいくらも口に云われない程の済まないと云う気持が一緒になって、真黒にかたまって、※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の上にのしかかって来た。
が、その辛い思いも、お久美さんの静かな身のこなしに和げられると「お久美さんは自分のものだ」と云う不思議な喜びが渦巻き立って、自分の力が強められた様な誇らしい心持に移って行った。
それ等の心の遷り変りは実に実に速くて、目にも止まらぬ程のものでは有ったけれ共、※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の心は非常に過敏に、明るくなったり暗くなったりして動かされた。
「私のお久美さんだ」と云う満足が押えても押えても到底制しきれない力で延びて行くと、病的な愛情が※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の胸を荒れ廻って、「若し万一此の人に自分でない者が斯うして居たら」と云う途徹も無い想像の嫉妬までおぼろに起って来までした。
けれ共やがて、それ等の過激な感情が少しずつなりとも鎮まって来ると、純な愛情に溶かされた様な、おだやかな、しとやかな、何者かに感謝しずには居られない嬉しさに※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は我を忘れて居た。
お久美さんは大変静まった様子をして居た。
手を預けた儘打ち任せた寛やかな面差しで居るのを見て※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は何となし驚ろかされた様な気持になった。
※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は両親が有って而も大切がられて、かなり暖かな気持に包まれて居てさえ此れ程感動するのに、不幸が離れる事のない哀れな暮しをさせられて来たお久美さんは自分の倍も倍もどうか有りそうなものだのに「若しかしたらそれを感じない程に荒んだ気持になって居るのでは有るまいか」と云う歎かわしい疑が一寸※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の頭に閃いたがそんな事は瞬きをする間に消えて仕舞って※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は純な涙を瞼に一杯ためて、尊い話でも聞く様にお久美さんが甘えた口調でゆるゆると話し出すのを聞いて居た。
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「伯母さんが何か彼にか云っていやだからあさってのお昼っから池の所で話をしない事?
丁度いい塩梅にS村の叔父さんの所へ行くんですって。
「まあそう、そんなら行きましょう。
ゆうべは私もう腹がたって腹がたって居たたまれない様だった。
貴女幾時頃まであんな所に行かせられて居たの。
帰りしなによって行こうかと思ったらあのいやな人ったらわざわざ土間に下りて見てるんですもの駄目だったのよ。
「何でもよっぽどおそくまでだった事よ。
私が上って来ると、
『お※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]さんはお帰りだよ』
と云って大きな声で笑ったのよ。
私あんまりだと思ったからニコリともしないで居たけれ共何故あんなに邪魔が仕たいんでしょうね。
私にはどうしたって気が知れないわ。
「彼の人のは病気なんだもの。
「だってひどすぎてよ。
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お久美さんはお関が変にやっかんで手紙の遣取りも会って話をするのもいやがって何ぞと云っては茶々を入れると云う事をおだやかなそれで居て思い入った口調で話すのを聞いて居る内に※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の心はすっかりその一語一語に引き込まれて仕舞ってどんな事があってもお久美さんの云う事に塵程の間違いもない様に思えた。
自分の云う丈の事を話すとお久美さんは、あんまり遅くなるとよくないからと帰り仕度をし始めた。
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「もう少し位居たって大丈夫よ。
まだ十分位ほかなりゃあしない。
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と※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子が止めても、
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「だめよ、一寸先生の所へ来た次手によったんですもの。
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と振り切る様にして又元の雨落ちの所から下へ下りた。
割合に何でもない様に気持悪く汚れた平ったい下駄を又履いたお久美さんは、裾をつまみあげて体に合わせては小さ過ぎる傘を右手に持つと、
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「あさってね。
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と云うなり内輪にさくりさくりと芝を踏んで拡がってある無花果の樹かげから生垣の外へ行って仕舞った。
※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子はお久美さんが居なくなってかなりの時がたつまで、何だかそわそわした誰かがどっかから隙見をして居るのを知りながら見出せない様な気持で居た。
三
お久美さんはちっとも奇麗な人ではなかったし勿論不幸な生活をして居るのだから※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子と話が合うと云う頭の発達は少しも仕ては居なかった。
けれ共十の時から今までのかなり長い間年に二度会うか会わないで居ながらどうしても弱らず鈍る事のない愛情を※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は持ちつづけて来た。
お久美さんの両親のない事、力になるべき兄弟の一人も此の世に居ない事、まして彼《あ》の半病人の様なお関に養われて居なければならないと云う事はどれ程※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子に思い遣りを起させたか知れない。
小学校に入った時から飛び抜けて「仲よし」と云う友達を持ちたがらなかった※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は始めて会った瞬間から、
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「この人は私大好き。
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と子供心に思い込んで仕舞ったお久美さんに対しては年と共に段々激しいいつくしみを感じる様になって来た。
年は自分より上であっても確かな後立てもなく厭なお伯母さんにホイホイして居なければならない人を想うと※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は只仲よくして居るとか可愛がって居るとか云う丈ではすまない気になって居た。
自分の力の及ぶ限りお久美さんを安らかにさせてやらなければならないのだとも思い又あんな悲しい目をこらえて居られるのも二人の助け合いがさせて居るので、私がお久美さんを思わない時のない様に辛い涙のかげでお久美さんの呼ぶのは亡くなった両親でなければ自分だと云う事も信じて居た。
十位の時からの交わりはお互の位置の違いだとか年の違いだとか云う事を離れさせて仕舞って居るので、十九のお久美さんは二つ下の※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子に愛せられ大切にいつくしまれて、困る事と云えば打ちあけて相談するのが習慣になって居て、二人は打ちあけて話して居るのだとか上手く相談に乗って呉れようかくれまいかなどと云う事に関しては何も考えも感じもしない程「一緒の者」と云う気になりきって居た。
※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子が十の時二つ上のお久美さんは最う沢山に延びた髪を桃割に結ってまるで膝切りの様な着物の袖を高々とくくり上げて男の子の様に家内の小用事をいそがしそうに立ち働いて居た。
始めて二人の会ったのは今でも有る裏の葡萄園であった。
その年始めて一人で祖母の家へ避暑に来た※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子はお関に連れられてそこに来た。
その葡萄園は低い生垣で往還としきられて乗り越えても楽に入れる程の木戸から出入をする様になって居た。
葡萄と云えば藤づるの籠か紙袋に入ったの許りを見なれて居た小さい※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子はまるで南瓜の様に大きい勢の好い葉が茂り合って、薄赤い赤坊の髪の毛の様にしなしなした細い蔓が差し出て居る棚から藤の通りに紫色に熟れた実が下って居るのを見た時はすっかりおどろいて仕舞った。
地面には葉の隙間を洩れて来る夏の日光がキラキラときららかな色に跳ね廻り落ちた実が土の子の様に丸まっちくころっとしてあっちこっちにある上を風の吹く毎にすがすがしい植物性の薫りが渡って行った。
葉ずれの音は※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子が之まで聞いた何よりもきれいだと思った程サヤサヤと澄んだ響を出し、こんなに広い広い園の中一杯に自分勝手に歩き廻る事もかけ廻る事も出来ると思うと空想的だった※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は宇頂天に成って、自分が、自分でよく作っては話して聞かせるのを楽しみにして居た「おはなし」の女王様になりでも仕た様な浮々した愉快な気持になって居た。
独りで先に入って行ったお関は大変丸々とした頬の美くしい女の子をつれて来て、
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「さあお前好いかい、
すっかりよく熟したのを取っておあげ。
お※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]ちゃん、私は一寸用があるから此の子と音無しく遊んで居らっしゃい。
お久美って云う名ですからね。
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と、その娘の肩を※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の方へ押す様にして引き合わせるとさっさと主屋の方へ行って仕舞った。
少し極りの悪かった二人は顔を見合わせては罪の無い微笑を交して居たが、
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「取りましょうね、甘い事よ。
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とお久美さんが先に立って歩き出した。
行く先々には踏台がお伴をしなければならなかった。斯うして二人はじきにすっかり仲よしになって仕舞った。
一体※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は田舎の子は大嫌いだった。
無作法に後について来たり※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の知らない方言で悪口を云ったりするのもいやだったけれ共、傍によるとプーンとする土くささと塵くささが尚きらいであった。一番始めに遊び友達に成ろうとした近所の娘の髪に非常に沢山虫の住んで居るのを見てからと云う者[#「者」に「(ママ)」の注記]※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子はどんな事があっても彼《あ》の子とは遊ぶまいとかたく思いきめて居た。
けれ共お久美さんは赤くこそあったがさっぱりした髪をして居て傍によっても彼のいやな臭いはしなかった。
それ丈でもかなり※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は嬉しかった上に会う所が先ずよかったので五分も立たない間に口に出してこそ云わなかったけれ共「仲よしに成りましょうね」と思い込んで居た。
一時間程をその園の中で二人は此上なく面白い時を過す事が出来た。
蔓からもいだ許りの実を各々が一粒ずつ拇指と人指指の間に挾んで※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子のはお久美さんに、お久美さんは※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の口元へと腕を入れ違いにして置いて「一二三」で一時に相手の口の中に透き通る実を弾き込んだり、番小屋の汚れた板の間に投げ座りをしてお互に寄っ掛りながら得意で其の頃して居た口から出まかせのお
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