て居る女の前で益々乗ぜられる様な素振りを現わす事はこらえる丈の余裕は有った。
年の故で人の好くなって居る祖母は、たった一人の女の子の孫に与えられた賞め言葉ですっかり満足して仕舞って、子供の様な眼差しをしながら、他人から見れば立派でも美くしくもない孫の体を見上げ見下しして、
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「ほんとにねえ、年と云うものは恐ろしいものですよ。去年来ました時には前の川で魚を取る事許りに根《こん》をつくして居ましたっけが、此頃は一角大人なみに用を足してもくれましてね。
けれども朝から晩まで机の前に座ったっ切りで居られるのは何より心配ですよ。
第一躰のためによくありませんのさ。
昔の労症労症って云ったのは皆座って居る者に限って掛ったものですからね。
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と真面目らしく云うのを聞いて居た者は、皆笑って仕舞った。
お久美さんは体を前後に振って永い間たまって居た心からの笑いが今あらいざらい飛び出しでも仕た様に涙をためて笑いこけた。
静かに微笑みながらお久美さんを見守って居た※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は、鮮やかな赤い唇が開く毎《た》びに堅そうに細かい歯ならびがはっきりと現われる単純で居て魅力のある運動に半ば心を奪われて居て、今自分が何を笑って居るのかと云う事さえもたしかではない様であった。
一しきり笑いがしずまるとお関は又元の頑なな顔の表情に立ち返って、
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「それにしてもまあ女の子の育つのを見て居る位不思議なものはありませんですよ、
まるで何て云って好いか丁度日あたりの好い所に生えた芽生えの様なもんですね。
一日一日とお奇麗におなんなさる。
好いお嫁さんにおなんなさいますよ。
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私見たいに老耄《おいぼれ》ちゃもうお仕舞いですよ、ほんとうに、皺苦茶苦茶で人間だか猿だか分りゃあしない。と云い云い二人の娘を見た眼には明かに憤怒の色が漂って居た。
※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は少し驚ろかされて此の四十五の恐ろしく嫉妬深い女の顔を眺めた。
妙に厚ぼったく太い髪と顔下半分の獣的な表情は、そのゼイゼイした声と一緒にお関を余程下等な感じの悪い女にさせて居た。
歯からズーッと齦まではかなり急な角度で出っ歯になって居て、その突出た歯を被うには到底足りないで一生僅か許りの隙間を作って居なければならない唇は、まるで大夜具の袖口の様で荒れて白く乾いた皮は石灰を振りかけた様にパサパサになって居た。
男の様に育った喉仏はかすれた太い声の出る理由を説明はして居るものの不愉快な聞手の気持を和げる役には立たない。
美くしいと云うまででなくても賢しこそうなと云う顔を好む※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子はお関の顔を見るとどうしても哀れな模倣で一生を送る猿と違いはない様な感じを押える事は出来なかった。
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「何の何のお関さん。
四十代は男も女も働き盛りですよ。
生れついた片輪の事を考えれば、人並みに生れついたのを有難いと思わなけりゃあなりませんよ。
年をとれば皺の出来るのは、勿体ないがどんな立派な宮様だって同じですわね。
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と云った祖母の言葉にお関は幾分か力を得て、又目前にもう七十を越した自分よりもっともっと皺だらけの美くしさも何にもない年寄が居るのをはっきり知って、
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「ほんとうにそうですねえ。
そう云って見りゃあ毎朝お天道様のお出なさるも有難い事ですねえ。
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と云いながら、杏の砂糖漬けだの青梅から作った梅酒などを※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子達にすすめた。
お久美さんは※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の話し掛けるのを待ち兼ねて居る様にしてじいっと座って居た。
※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子も亦たった一度でもお久美さんに話す時を得たさに居たくもない所に座って、仕たくもない――平常なら此方から頭を下げても仕たく様[#「く様」に「(ママ)」の注記]な下らない馬鹿話しをからくり人形の様に、無神経な木偶の様にぐずぐずと喋って居なければならなかった。
よく※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の気を見て居るお関は※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子が口を切る様に少しの暇を与えては、漸うさぐり得た二人の話の緒をヒョイとわきから引っ浚っては楽しんで居る。
※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は素直にお関の玩具になっては居られなかった。どうしたってお関は今夜話させまいと掛って居るのだと思うと半分むしゃくしゃになってつとめて面白そうに高声で東京の事だの親類の子供達の噂だのをした。
話の最中に何を思ったかいきなりお関が、
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「ああそうそうお久美、
お前一寸洗場へ行ってね、さっき取りこんだシャツに鏝を掛けて来てお呉れ。
恭は一寸出て行って居ないから。
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と云いつけた。
お久美さんは悲しそうな顔をして、それでも半句の不平も云い得ずにコトコトと暗い土間から外へ出て行って仕舞った。
うつ向いた眉のあたりには苦痛を堪えるに練らされた様な堅い確かさと淋しさが浮んで居たのを見ると※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は何の為にわざわざ今頃になってからお関が人っ子一人居ない洗場へお久美さんを追い遣ったかが明かに見え透いて、譬様も無い程情無くなって仕舞った。
少し珍らしい事になると話しまで聞かせない積りなのかしらん。
※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子はお関の極端な仕打ちに驚くと共に、あんなに柔順に無言で辛さに打ち勝って行けるお久美さんが偉い様に思われた。
もうすぐ帰ろうと※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子はしきりに思ったけれ共、お久美さんが行ってから幾分か心のおだやかになったお関は前よりはよほどくつろいだ調子で、ほんとうに話をして居る気になって種々の半年間に起ったこの猫の額程の村の「事件」を話して聞かせた。
けれ共※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子はもう浮腰になって仕舞って、どうしても落つけなかった。
来なければよかったと云う悔と、お久美さんに対する一層のいつくしみが混乱した気持になってそれからじきに※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は祖母をせきたてて家へ帰って仕舞った。
二
次の日はどう天気がぐれたものか朝から秋の様にわびしい雨が降って居た。
昨夜はあんなに好い月だったのにやっぱり天気がまだかたまらないと云いながら家の者は陰の多い部屋にこもって、各手に解き物をしたり、涼風が立つ頃になると祖母が功徳だと云って貧しい者に施すための、子供の着物だとか胴着だとか云うものを小切れをはいで縫ったり口も利かずにして居るので、皆から離れたがらんどうな大部屋にポツンと居る※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の周囲はこりかたまった様な静けさが満ちて居た。
静かな所を望んで居る※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子にはその時位嬉しい時は無い筈なのだけれ共、あんまりまとまりなく拡がった部屋なので、東京では三方を本箱で封じられた様に狭くチンマリした書斎に居つけて居る※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子はどうしても此の部屋では専心に読み書きが出来なかった。
殊に九尺の大床に幾年か昔に使った妙な鉄砲だの刀だのがあるのが武器嫌いな※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子には真にたまらなかった。
其の時も平常の通り大きな大きな机に頬杖を突いて、一方の指の先で髪をいじりながら、ぼんやりと障子にはめたガラスを透して、水銀が転げ廻っている様な芝生の雨の雫だの、遙か向うに有るか無しかに浮いて見える三春富士などの山々を眺めて居た。
何の変化もない作りつけの様な総ての物の様子に倦きがきた頃不意に先[#「先」に「(ママ)」の注記]ぐ目の前の梅に濡そぼけた烏が来て止まった。
痩せこけて、嘴許り重そうに大きくて鳥の中では嫌なものの中に入れて居る※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子なので、地肌にピッタリ張り附いた様な重い羽根にも「烏の濡羽」などと云う美的な感じは一寸も起らないで只、死人と烏はつきもので、死ぬ者の近親には如何程鳴き立てても聞えるものではないなどと云う凄い様な話し許りを思い浮べて居た。
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「一体烏という鳥は決して明るい感じのものではないが」
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と思って居ると、凝り固まった様にして居た烏はいきなり、もう仰天する様な羽叩きをして飛び出した。
四辺が眠って居る様なので、バサ、バサ、バサと云うその音は途徹もなく大きく響いた。
※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は、急に引きしまった顔になりながら、何故あんなに急に飛び立ったのかと少し延び上って外をすかして見ると思い掛けず隅の雨落ちの所に洋傘を半つぼめにしたお久美さんが立って居た。
※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は息が窒る様になって仕舞って、強《こわば》りついた様に口も利けなくなった。
弾かれた様に立ち上って、此方を凝と見て居るお久美さんを見返したまま、稍々《やや》暫く立ちすくんで居たがやがてそろそろと障子際までずって行くと敷居から脱れそうに早く障子を引きあけて、
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「早くお上んなさいよお久美さん。
さ早く。
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と云うなり、此方へ寄って来たお久美さんの肩をつかまえて揺った。
お久美さんは案外落ついて静かな調子で、
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「駄目なのよ、
足が大変汚れて居るから。
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と云って、低い駒下駄の上に、びっしょりになって所々に草の葉の切れたのや泥のはねた足を見た。
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「じゃ雑巾持って来るから。
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※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は長い廊下を台所までとんで行って雑巾をつまんで来ると、拭く間ももどかしくお久美さんを引きずる様にして障子の中に入れると、凡そ人間の入って来られる所々を一つも取り落しなくピタリピタリと閉め立てた。
一箇所の風穴も無くて冬の最中の様になった部屋中を見廻して、少しは気が安まったらしい眼付になった※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は、漸うお久美さんの傍にピッタリと座って、堪らなく可愛い者の様にその手を自分の二つの掌の間に押えつけた。
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「どうしたのお久美さん。
私もう真とに真とに驚いちゃった。
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と、始めて笑顔に成った時、自然と涙が滲み出て、物を云う声が震えるほどの満足が※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の胸に滾々と湧き上って来た。
いつも物に感動した時にきっと表われる通りな、キラキラと眼を輝かせて、顔を赤くして口も利けない様に唇や頬の筋肉に痙攣を起して居た※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は、じいっとして下を見て微笑して居るお久美さんを、食べて仕舞い度い程しおらしい離されない人だと思って見入って居た。
平常興に乗れば口の軽い※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は、斯う云う時に出会うと、殆ど唖に成った程、だまり込んで仕舞って、思いをこめて優しくお久美さんの手を撫ぜたり肩を触ったりが漸々であった。
「此の降る中をお久美さんは来て呉れた」それ丈の事が此の時に如何ほど重大な事件として※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の心
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