91−24]子に会う毎に、云いたい事は有っても云えない苦しさに攻められて居た。
山田の家でも此頃は種々な事がゴタゴタと起って来て、お関の見当違いな怒りを受けてお久美さんや小女は身の置所の無い様に成る事も一度や二度ではなかったけれ共、そんな時には、すこしずつ家に居馴れて来た重三が低い地を這う様な声で、
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「いかんなあ、
まあそう気にせんでおかし。
今に俺も何とかして云うといてやるわ。
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と、如何にも思案の有るらしい様子で慰めたりしたけれ共、そんなにされるとお久美さんは却って、付元気をして、厭な重三の口を利け[#「け」に「(ママ)」の注記]掛ける機会も与えない様にせっせと立ち働いた。
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「彼那獣みたいな男、私大嫌い。
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此頃ではお久美さんは、はっきりその言葉を心に感じて居たので、声を聞いた丈でも自分が情なく成って来るのであった。
重三は勿論お久美さんを見た瞬間から自分の半身になる者だと思って居たので、単純な頭で、お久美さんが自分をさけたり、口を利くまいとして居るのは只自分に対しての羞恥とつつましやかさのさせる事だとばかり思って居たので、重三が行くとチラッと流し目を呉れたまんま、さっさと何処かへ行って仕舞う様子等は其の長く黒い髪と、輝いた頬と共に重三にとっては幻の倉で有った。
すべてを善意にばかり解釈して居る彼にお久美さんのする事のすべて、持って居るあらゆる物は此上なく不思議な魅力有るものであった。
そして丁度とろ火にかけたお粥の様な愛着をお久美さんに持って居たのである。
重三からすっかり離れ、お関にも好意は持って居ないお久美さんの心は、今までより一層はっきりと恭吉の一挙一動に見開いた眼を以て注意して居た。
重三に比べて何と云う違い様で有ったろう。
お久美さんは滑らかに薄赤いつややかさを持って居る恭の皮膚を想い浮べると一杯に黒毛の被うて居る堅そうに醜い重三の等はまるで同じ人間ではあるまいと思われる程お久美さんの目に見っともなく写った。
太い峰の、息をするさえ苦しそうな鼻、
垂れ下った眼と唇、
喘ぐ様な声と四辺の静けさを破って絶えず響いて居るフー、フーと云う呼吸の音は、お久美さんに小屋の豚共を連想させずにはすまなかった。
戯談一つ云えず、笑う時も憤る時も知らない様な重三の前に軽口に気の利いた悪る口も云い、戯談で人を笑わせ、抜目のない取りなしをして居る恭吉が如何程目立ったか分らなかったのである。
お久美さんは今となって恭が自分に非常な力を持って居そうな事を感じた。
その調った容貌を見てはその心までも疑う余地を与えられなかった。
重三は醜いと思う裏面に恭吉のまとまった様子が一日一日と広い領域を占め出して、彼の云う事も笑う事も皆自分に何処かで関係がありそうだと云う事までも、心の底には感じられて居た。
恭は段々とそれに気付かない程ほんとにお坊っちゃんではなかった。
殆ど下等なと云って好い位の想像を以て恭はお久美さんの此頃の態度を推察して居た。
恭吉は洗場で洗濯物に火延しを掛けながら小唄を唄って万事を胸にのみ込んで、渦巻の中に落ち込んだ軽い塵の様に自分自身を自分の感情に攻めつけられて居るお久美さんの若い姿をジイッと見て居た。
そして或る期待で恭は軽い心のときめきをさえ感じて居たのである。
自分の気持が自分で分らなくなるにつれて、お久美さんはすべての周囲を恐れ出した。
恭吉は怖ろしい者であった。
お関も重三も気味が悪かった。
人間と云う人間のすべてが、自分の心をのぞき込んで居る様な、何にか自分を仕様と掛って居るのではあるまいかと云う様な不安が湧いて、どうせ自分はたった一人世の中に放り出されて居るものなのだからと云うおぼろげな投げやりまで育って来て、自分なんかが居たって居なくったって日の出る事はいつも同じだ等と、その年頃に有勝ちな病的な悲哀に捕えられて居た。
「どうせ私」と思って居たお久美さんは、すべてを成り行きのままに委せて仕舞って居たけれ共、※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子に会ったりすると、心の中にたまって居た沢山の愚痴が皆流れ出して、丁寧に掛けられる同情の言葉に又何処か休所の出来た様にも思えたりした。
其の日も※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は裏へ出た次手にお久美さんを訪ねて畑道をゆるゆると歩きながら種々の事を話し合った。
二人共自分達の話すべき事は此ではないと云う事をはっきり意識しながら、何だかその一番の所へ触れるのを互に遠慮して居る様に満たない気持であて途も無い事を喋って居たが、到々お久美さんは思い切った様に、
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「ねえお※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]さん、
私もう他所へ出ようかと思って居るのよ、此頃。
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と口を切った。
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「どうして?
「もう彼の家が厭で厭でたまらないんですもの、
ほんとに居たたまれないわ、私。
「そんななの、
だって、今まで彼那に長い間貴女堪えて来たんじゃあないの。
「だって、この頃は余計そうなのよ。
私もうほんとにいや。
「だっても家を出るって、どうするの。
「どっかへ奉公にでも行く事よ。
もうその方がどい丈好いか知れないわ。
つまらないんですもの、斯うして居たってね。
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※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子はお久美さんの打ち明けかねて居る気持を大方は察しる事が出来たけれ共、どれ程の思い違いと混惑が起って居るのかは知る事が出来なかったので、到々思い切ってお久美さんの気を引くために、
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「貴方の所へ今度来た方ね、
どんな人。
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と云って見た。
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「重三さん?
「ええ。
「私、分らないわ。
「そんな事あるもんですか。
一体どんな性質なの。
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お久美さんは引きしまった顔をうつむけて乾いた土を見て居たが、いきなり頭をもたげると、
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「大馬鹿よ!
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と、※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子が喫驚した程鋭い声で叫ぶ様に云って、ニヤニヤと意味ありげな微笑を洩した。
※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子はその古代の彫像の或る者に現わされて居る様な計り知れない程複雑した微笑のかげから何物かを得ようとして、常とはまるで異って居るお久美さんを厳格な気持で眺めた。
※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は陰気になって、その高く短く空の中に飛び去って仕舞った
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「大馬鹿よ!
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と云う一句の響きを思い返した。
非常に皮肉らしくあった。
又大変悲しそうでもあった。
苦しい苦しい物を吐き出した様な響であった事を思うと、お久美さんが単に重三の噂の心持にはなれないで居たに違いないと思われて来ると、恐ろしい気持が※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の胸一杯になった。
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「まあ、まさか。
でも大馬鹿でも介いやしませんね。
彼の人が好きで自分の養子に仕たんだもの、
貴女には何にも関係がない。
ほんとに何にも関係がありゃあしないんだもの、
ねえ、お久美さん。
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※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は殆ど涙の出そうなまで悲しい気持になって居た。
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「ええ、そうでしょうよ。
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お久美さんは非常に投げやりな口調で云うと、恐ろしく神経的に袂の先をピンピン引っぱりながら涙を一杯目に浮べて来た。
その様子を見ると※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は堪えられない様になりながら非常に興奮して、
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「お久美さん、貴女何か思い違いをして居ますよ。
あの人は只彼の家の息子になって来たので貴女にはほんとに何でもない人なんですよ。
貴女きっと自分について何か不安がってるんでしょう。
第一お関って云う人がそう事を運んで行く人じゃあありませんもの。
ほんとうに貴女は何か取り越し苦労をして居るんじゃあないの。
私には大抵分っては居るけれど、そりゃあ余り心配の仕すぎじゃあ有りませんか。
「貴女は何も知らないからそんな呑気な事云って居らっしゃるけれど、どうだか分らないじゃあないの。
彼の人があんな足りない者だから余計私を苦しめる積りでどうかするかもしれないじゃあないの。
「だから、それが思いすぎなのよ。
貴女に対して感じて居る通りの嫉妬を矢っ張り今度来た人にだって持つに極って居るじゃあありませんか。
貴女の邪魔をする通りに重三とか云う人の事も取り扱って行くにきまって居るわ。
重三と云う人にだって一生嫁は取らせない積りで居るんでしょう、きっと。自分が先に死ななくちゃあならないなんて思わずに。
だから大丈夫よ。
「いいえ、大丈夫だなんて分るもんですか。
私はきっと彼の人の事だからそうでもするに極って居ると思うわ。
第一そりゃあ自分で大切がって居るんですもの。
「大切がるなんて……
そりゃあ只珍らしい内の事丈なんでしょう。
何にしろ貴女なんか今のままなのだから安心して居らっしゃいよ、ね。
心配したって仕様がないわ。
そりゃあきっとそうならないと私断言する。
「貴女みたいに苦労のない人はありゃあしないわ、ほんとうに。
貴女ばっかり受け合って呉れたって、伯母さんがそうしたらどうするの。
お※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]さんがそう云いましたなんて云ったって仕様がないじゃあないの、
駄目よ。
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※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は今まで聞いた事のない乾いたガサガサなお久美さんの声を聞いた。
強《こわば》った様な頬付をして病気の様な眼をして居る様子を見ると、その心配にどれ位お久美さんは悩まされて居るかと云う事が思いやられて、自分の力で取り戻しのつかない遠くの方まで走らせて仕舞った様な悔みと不安がじいっと仕て居られない程激しく※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子を苦しめた。
※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子も又お久美さんを自分の力で如何うもする事は出来ない事だと云う事をかすかながら感じ始めて居た。
非常に淋しかった。
けれ共「それはそうに、とうの昔からきまって居る」と云う気持が一滴の涙もこぼさせなかった。
それから暫くして少しずつ気の落着くに連れてお久美さんは普通な口調で、どっかちゃんとした家で自分の居られそうな所を心掛けて置いて呉れと頼んで、重苦しい様な足取りで家に帰って行った。
十六
※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子はお久美さんに就て非常に心配を仕始めた。
辛い悲しい事ばかりに会って居るので、すべて世の中の事々をどんな事までも暗い情無い方にばかり傾けて考える様に馴らされた心を哀れがらずには居られなかった。
ほんとにお久美さんが自分で云った通り、外へ出て暮すのも好いかもしれない、彼那家に取り越し苦労ばっかり仕て居るよりも却って他人でも人並の者の中に入って居た方が苦労も少ないだろうし後のためにもなるかもしれないと思ったりしたので、非常に年を取った者の様な地味な気持で三間もある様な手紙を東京の家へ出した。
不断幾度も話して居た事では有ったけれ共、細々とお久美さんの気の毒な身の上を書き連ねて、どうぞどっか好い所が有ったら世話をして上げて呉れる様にと、涙まじりの願いを母へ送った。
五六日立ってから来た返事には、お久美さんの境遇には同情する
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