けれ共、今差しあたってその位の年頃の人の行く様な所も見当らないし又私として直接女中の世話も出来ないのだからと云ってあった。
家で使うならと云う様な事が有ったので、※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は早速、決して家で使う等と云う事は出来ない、私が帰った時呼びずてにして用を云いつける事は到底出来ないのだから、どうぞいそがないでもどっか見つけてあげてくれと、前にもまして丁寧に願ってやった。
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「お久美さんの心配な程私も心配して居りますし、私としては出来る丈の事をしてお久美さんを好く仕てあげなけりゃあならないんでございますもの。
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と云う様な文句を書きながら、度はずれの様な事許りする自分を母はどう思って一字一字を読んで呉れるだろうと思ったりして居た。
寛大に自由にして居て呉れる母も自分とお久美さんとの間に対しては或る不安を持って居ない事はないことを※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は知って居た。
普通の友達以上に親しく離れられない者同志の様にして居ると云う事はよく学者仲間の問題になる病的な心理状態にあるのでは有るまいかと云う危惧が押えられず湧いて居たと云う事は折々其れとなく与えられる注意で※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子も覚って居たけれ共、自分がお久美さんを「仲よし」と云う以上に愛して居るのは事実としても其れが何にも憚かられる事とも亦危ない事とも考えられないので、遠慮もなくすべてを頼んで居た。
そして、おそかれ早かれ孰れはお久美さんに都合よくなる様な事が見つけられるにきまって居ると云う安心が心の底にあった。
毎日毎日※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子はお久美さんの行かれそうな家を知人の間に物色して見たり、自分が充分働けて一つ家に同じ様にして暮して居られたらさぞ気持の好い事だろう等と、或る時は非常に実際的に又或る時は此上なく空想的に彼女の身の振り方を案じて居た。
そんな時にも※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は永年の間に馴らされた心と云うものを考えずには居られなかった。
少しずつ字と云う物が自分の言葉を表わして呉れるものになってからまだ二三年外立たない年にある自分にとっては、七年と云う時間は殆ど一生と云っても好い位の長いものである。
まだ心の育ちかけの漸々赤坊と云う名からついさっきはなれたと云う様な時に「お久美さんは可愛い」と思い込んだのが一種の感情の習慣になって、お久美さんと云えば憎めないもの、可愛いものとなって来て居るのが気味の悪い位種々な時にフイフイと現われて来た。
※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子はお久美さんを疑い切れなかった。
はたの者がどんなに散々とこなそうともつまりの時にためらわぬ弁護を加える気持を持って居た。
そして、自分とお久美さんの間には何の隔りもなかった――女に有り勝な物質上の遠慮だとか嫉妬だとか云うものは完く姿をかくして居たのである。
女姉妹のない※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は子供の時からまるで年上では有っても妹に対する様な気持をお久美さんに持って居たので、勿論たまには不快に思う事又は激しい感情に動かされて殆ど普通に有り得ない気持になる事はあったとしても、揺がぬ基礎になって居るその感情は二人の永年の間をあきない丁度米の飯の様な味を出させて居た。
と、※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は、その時もたった一人で思って居るのであった。
十七
其の頃から村中には、重三に対して種々な噂が立ち始めた。
誰が云い出した事かは知らなかったが、
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「お関さんと何て似て居らっしゃるんでしょう。
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と云う低いつぶやきが皮肉に彼処此処の村人の中に繰り返された。
勿論※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子もそれを聞いて寒い思いをした。
祖母は皆と共に嘲笑って居た。
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「大きい声では申されません事ですけれどね、どことなし似て居らっしゃる所が有りそうでございますね。
そんなにはっきりは分りませんけれど、どうもね。
怪しいものでございますよ。
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それ等の言葉は、要領を得なければ得ない丈、曖昧であればある丈、物ずきな人間の心に種々の想像を起させて、陰気に低くボソボソとそれで居てなかなか執拗に山田の家を被いに掛った。
云い出した者は勿論、お関や何かに積った悪意を持って居る者共だとは思って居たけれど、お関は気の顛倒する程の恐怖に襲われた。
自分で調える事をなし得ないまでに混乱した頭になって仕舞った。
非常に臆病になって蚊のつぶやき程の人の噂にも全身の注意を集めて聞き落すまいとし「お関」と云う言葉「重三」と云う声に霊の底の底まで震わせながらも、外見はちっとも常とかわらない落付き――年のさせる図々しさと虚勢を張り通す事を仕つづけて居た。
実際お関は平気らしく見えた。
少くとも彼女の周囲の者の目は内心の争闘まで見透かす事は出来ない事であった。
お関は平気で居る重三――我が子を見た。
冷笑を以て朝から晩まで自分を見る恭吉の眼を厭った。
何にも知らない様にしてせっせと人の仕事に口を出して町まで汗だくだくで日参して居る罪のない主人を見た。
そして自分の周囲には多くの目が芥一本も見のがすまいと自分等の行動を見守って居る事を考えると、正直な良心の攻めに合って、自分の生きて居ると云う事さえ堪まらない事に思えて来た。
お関は偽らない心で今日死のうか明日死のうかと云う日を続けた。
その時は、自分の死によって今までのすべての悪いと云わるべき行為が浄められるものだと云う様な感じを持って居た。
大病が自分を一瞬に引き攫う事も、天災が此の村全体を無に帰させて仕舞えばと云う事も真正直に望まれる事であった。
実際、お関は最後の逃げ場所を死に求め様として居たのである。
けれ共或る晩、お関は静かに自分の死ぬ方法を考えた。
種々の前例が目の前に行ったり来たりしたけれ共、一つとしてああそうやってと思う様なのはなかった。
頸を括ろうか、水に溺れ様か、喉を突こうか…………
彼れこれと思って居る内にお関は暗い床の中で反物屋の店先に立った様に左から右へそりゃあよくないそれもいけないと死に方を選んで居る非常に滑稽な自分を気づいた。
お関はこたえられなく可笑しくなって、思わずフフフフと云う笑さえ洩した。
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「死ぬなんて馬鹿馬鹿しい事が出来るものか。
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そしてお関の頭の中からは死の観念は全く姿を消して仕舞って、どうしたら巧く仮面を被り終せ様かと云う熱心がグングンとこみあげて来た。
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「ああ、ほんとにそうだ。
若し私が此処で死になんか仕様ものなら、そら見ろ気がとがめて死んで仕舞ったじゃあないかと云われるにきまって居る。
何と云われ様が死んで云い返すわけにも行かないから、ま生きて上手くやりこなして行くのが一番利口なのさ。
生きるために、天道様は人間をお作りなすったんだものね。
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非常に力強い後援を得た気持がしてお関は床の上に起きあがった。
そして手を膝にちゃんとのせて、どうしたら巧く事が運んで行きそうだかと云う事を考え始めた心の中には今まで覚えなかった力と快感が満ちて居た。
やや暫く暗い中にじいっとして居たお関は、
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「ああ、それに限る。
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と云うとさも満足したらしく――自分自身の心の働きを感謝する様な合点をすると、大きな溜息を一つして又床についた。
けれ共寝付かれないらしくモタモタと体を動かして居たお関は、今度はスーッと音も立てずに起きあがると、白い浴衣の姿を暗い中に気味悪く浮べて影の様に次に並んで居る布団に手をかけた。
枕の所へ口を押しつけて何か囁いては揺り、揺っては囁いて居ると、その床からムックリ立ち上った黒く大きい影と一緒に開け放した土間の方へ幻の様に裾を引いて下りて行った。
静まり返って死んだ様になって居る土間に微かなカタカタと云う音とシュッと云う音が聞えたきりあとは前にもました静寂な四辺一杯に拡がって主屋からは主人の大きないびきが重苦しく流れて来て居た。
農具とその他の樽や古箱等の積んである土間の一番の隅に一かたまりの様になってお関と重三が立って居た。
塵の厚く積った様な桶の底に燈されて居る豆ランプはピクピク、ピクピクとひよめいて一息毎に湿った土間に投げ込まれたまま幾年か立って居る廃物を淋しく照し出し、二つの影を魔物の様に崩れて恐ろしく大きく震わせては藁の出た荒壁に投げつけた。
ホッ、ホッと立つ細い油煙の臭いと土の臭味の満ちた中にお関は自分の髪結いに用う大形の鏡を持って立って居るのであった。
お関は鏡を高く持ち上げて互の顔の高さまでにした。
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「あ、お前これをお持ち。
顔をもっとこっちへお寄せ。
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お関は鏡を重三に持たせて自分は豆ランプをかざした。
灰色になった髪の汚なく寝乱れて、横皺の深く刻み込まれた額の下に三角形の目のある鼻の低い猿の様な口元の顔は、世の中の最も醜い者として選ばれた様な若者の顔と並んで長方形の枠の中に現われた。
弱い光線は二つの顔を照すには充分でなかった。
明る味の届かない所には肉の腐れ落ちて居る様な不気味さを以て暗く、そうでない所は身震いの付く程の黄黒さを以て描き出された。
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「私のする通りにおし。
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死魚の様な目は大きく見開かれた。
四つの瞳は冷たい水銀の上に凝りかたまった。
上下にと引き分けられた厚い唇の間から非常に大きく乱杭な歯と細ー長い列とが現われて消えた。
腐敗に赴いた死顔の様な二つの顔の筋肉は機械的に延びたり縮んだり、かたまったり、ゆるんだりする度に奇怪な絵の様な物凄く不完全な種々の表情が鎮まり返って居る鏡面に写っては消え、消えては写った。
暫くの間その意味あり気な運動は繰返されると小さい灯は吹きけされ、外界から洩れ入る薄明りの中に鋭く青白い鏡の反射が一条流れた時小虫さえ憚かる囁きが繰返された。
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「お前は私の子ではないよ。
「ああ。
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十八
人々は異常な興味を以てお関を見て居た。
彼那に云ったら何か云い訳位は仕て廻る事だろうと云う事が各自の頭にあった。
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「あんまり一生懸命で云い開きを付け様とでもすればそれこそ怪しいんですよ。
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等と、お関が一々事を分けて弁明して歩く事を十人が十人期待して居たのだけれ共、総てはそれとまるで反対に行って、お関はそんな事があるのですかと云う様なゆさりともしない様子を保ちつづけて、伝えられて行く噂さにビクとも仕ないらしく見えた。
種々鎌をかけて此那事も彼那噂もありますと云って行ってもお関は静かに笑いながら、
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「まあ仰っしゃりたい様に云って居らっしゃるがようござんすわね。
どっちに扇が上るかはお天道様の御心次第ですからね。今にどうかきまりましょう。
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と云う許りで、ちっとも周章てた暗そうな事がないので、いつとはなしに噂は下火になりかけた。
お関は自分の作戦の成功を心で飛び立つ程喜びながら表面はあくまで平静らしく事のなり行きを見て居た。
お関は正直者が勝を必ず占める世の中ではない事を知って居るのだった。
人間は妙なもので、偽だと十中の八九までは分って居ても、嘘を云う者が余り押し強くその立ち場を守って居ると、却って、それじゃあ自分の方がと云う怪しみが湧いて来るものであ
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