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「だめよ、一寸先生の所へ来た次手によったんですもの。
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と振り切る様にして又元の雨落ちの所から下へ下りた。
 割合に何でもない様に気持悪く汚れた平ったい下駄を又履いたお久美さんは、裾をつまみあげて体に合わせては小さ過ぎる傘を右手に持つと、
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「あさってね。
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と云うなり内輪にさくりさくりと芝を踏んで拡がってある無花果の樹かげから生垣の外へ行って仕舞った。
 ※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子はお久美さんが居なくなってかなりの時がたつまで、何だかそわそわした誰かがどっかから隙見をして居るのを知りながら見出せない様な気持で居た。

        三

 お久美さんはちっとも奇麗な人ではなかったし勿論不幸な生活をして居るのだから※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子と話が合うと云う頭の発達は少しも仕ては居なかった。
 けれ共十の時から今までのかなり長い間年に二度会うか会わないで居ながらどうしても弱らず鈍る事のない愛情を※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は持ちつづけて来た。
 お久美さんの両親のない事、力になるべき兄弟の一人も此の世に居ない事、まして彼《あ》の半病人の様なお関に養われて居なければならないと云う事はどれ程※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子に思い遣りを起させたか知れない。
 小学校に入った時から飛び抜けて「仲よし」と云う友達を持ちたがらなかった※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は始めて会った瞬間から、
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「この人は私大好き。
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と子供心に思い込んで仕舞ったお久美さんに対しては年と共に段々激しいいつくしみを感じる様になって来た。
 年は自分より上であっても確かな後立てもなく厭なお伯母さんにホイホイして居なければならない人を想うと※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は只仲よくして居るとか可愛がって居るとか云う丈ではすまない気になって居た。
 自分の力の及ぶ限りお久美さんを安らかにさせてやらなければならないのだとも思い又あんな悲しい目をこらえて居られるのも二人の助け合いがさせて居るので、私がお久美さんを思わない時のない様に辛い涙のかげでお久美さんの呼ぶのは亡くなった両親でなければ自分だと云う事も信じて居た。
 十位の時からの交わりはお互の位置の違いだとか年の違いだとか云う事を離れさせて仕舞って居るので、十九のお久美さんは二つ下の※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子に愛せられ大切にいつくしまれて、困る事と云えば打ちあけて相談するのが習慣になって居て、二人は打ちあけて話して居るのだとか上手く相談に乗って呉れようかくれまいかなどと云う事に関しては何も考えも感じもしない程「一緒の者」と云う気になりきって居た。

 ※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子が十の時二つ上のお久美さんは最う沢山に延びた髪を桃割に結ってまるで膝切りの様な着物の袖を高々とくくり上げて男の子の様に家内の小用事をいそがしそうに立ち働いて居た。
 始めて二人の会ったのは今でも有る裏の葡萄園であった。
 その年始めて一人で祖母の家へ避暑に来た※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子はお関に連れられてそこに来た。
 その葡萄園は低い生垣で往還としきられて乗り越えても楽に入れる程の木戸から出入をする様になって居た。
 葡萄と云えば藤づるの籠か紙袋に入ったの許りを見なれて居た小さい※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子はまるで南瓜の様に大きい勢の好い葉が茂り合って、薄赤い赤坊の髪の毛の様にしなしなした細い蔓が差し出て居る棚から藤の通りに紫色に熟れた実が下って居るのを見た時はすっかりおどろいて仕舞った。
 地面には葉の隙間を洩れて来る夏の日光がキラキラときららかな色に跳ね廻り落ちた実が土の子の様に丸まっちくころっとしてあっちこっちにある上を風の吹く毎にすがすがしい植物性の薫りが渡って行った。
 葉ずれの音は※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子が之まで聞いた何よりもきれいだと思った程サヤサヤと澄んだ響を出し、こんなに広い広い園の中一杯に自分勝手に歩き廻る事もかけ廻る事も出来ると思うと空想的だった※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は宇頂天に成って、自分が、自分でよく作っては話して聞かせるのを楽しみにして居た「おはなし」の女王様になりでも仕た様な浮々した愉快な気持になって居た。
 独りで先に入って行ったお関は大変丸々とした頬の美くしい女の子をつれ
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