−91−24]子の周囲はこりかたまった様な静けさが満ちて居た。
静かな所を望んで居る※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子にはその時位嬉しい時は無い筈なのだけれ共、あんまりまとまりなく拡がった部屋なので、東京では三方を本箱で封じられた様に狭くチンマリした書斎に居つけて居る※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子はどうしても此の部屋では専心に読み書きが出来なかった。
殊に九尺の大床に幾年か昔に使った妙な鉄砲だの刀だのがあるのが武器嫌いな※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子には真にたまらなかった。
其の時も平常の通り大きな大きな机に頬杖を突いて、一方の指の先で髪をいじりながら、ぼんやりと障子にはめたガラスを透して、水銀が転げ廻っている様な芝生の雨の雫だの、遙か向うに有るか無しかに浮いて見える三春富士などの山々を眺めて居た。
何の変化もない作りつけの様な総ての物の様子に倦きがきた頃不意に先[#「先」に「(ママ)」の注記]ぐ目の前の梅に濡そぼけた烏が来て止まった。
痩せこけて、嘴許り重そうに大きくて鳥の中では嫌なものの中に入れて居る※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子なので、地肌にピッタリ張り附いた様な重い羽根にも「烏の濡羽」などと云う美的な感じは一寸も起らないで只、死人と烏はつきもので、死ぬ者の近親には如何程鳴き立てても聞えるものではないなどと云う凄い様な話し許りを思い浮べて居た。
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「一体烏という鳥は決して明るい感じのものではないが」
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と思って居ると、凝り固まった様にして居た烏はいきなり、もう仰天する様な羽叩きをして飛び出した。
四辺が眠って居る様なので、バサ、バサ、バサと云うその音は途徹もなく大きく響いた。
※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は、急に引きしまった顔になりながら、何故あんなに急に飛び立ったのかと少し延び上って外をすかして見ると思い掛けず隅の雨落ちの所に洋傘を半つぼめにしたお久美さんが立って居た。
※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は息が窒る様になって仕舞って、強《こわば》りついた様に口も利けなくなった。
弾かれた様に立ち上って、此方を凝と見て居るお久美さんを見返したまま、稍々《やや》暫く立ちすくんで居たがやがてそろそろと障子際までずって行くと敷居から脱れそうに早く障子を引きあけて、
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「早くお上んなさいよお久美さん。
さ早く。
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と云うなり、此方へ寄って来たお久美さんの肩をつかまえて揺った。
お久美さんは案外落ついて静かな調子で、
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「駄目なのよ、
足が大変汚れて居るから。
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と云って、低い駒下駄の上に、びっしょりになって所々に草の葉の切れたのや泥のはねた足を見た。
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「じゃ雑巾持って来るから。
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※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は長い廊下を台所までとんで行って雑巾をつまんで来ると、拭く間ももどかしくお久美さんを引きずる様にして障子の中に入れると、凡そ人間の入って来られる所々を一つも取り落しなくピタリピタリと閉め立てた。
一箇所の風穴も無くて冬の最中の様になった部屋中を見廻して、少しは気が安まったらしい眼付になった※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は、漸うお久美さんの傍にピッタリと座って、堪らなく可愛い者の様にその手を自分の二つの掌の間に押えつけた。
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「どうしたのお久美さん。
私もう真とに真とに驚いちゃった。
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と、始めて笑顔に成った時、自然と涙が滲み出て、物を云う声が震えるほどの満足が※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の胸に滾々と湧き上って来た。
いつも物に感動した時にきっと表われる通りな、キラキラと眼を輝かせて、顔を赤くして口も利けない様に唇や頬の筋肉に痙攣を起して居た※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は、じいっとして下を見て微笑して居るお久美さんを、食べて仕舞い度い程しおらしい離されない人だと思って見入って居た。
平常興に乗れば口の軽い※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は、斯う云う時に出会うと、殆ど唖に成った程、だまり込んで仕舞って、思いをこめて優しくお久美さんの手を撫ぜたり肩を触ったりが漸々であった。
「此の降る中をお久美さんは来て呉れた」それ丈の事が此の時に如何ほど重大な事件として※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の心
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