なことをするなんて。何てばかだろう。朝子は激しく嗚咽しながら廊下を足早に歩いた。もすこしで部屋のドアというところまで来たとき、黒と白の市松模様の床石が足の下ですーんと一遍もち上って急に沈んでゆくような工合になって、立っていられなくなった。そこまでのことははっきりと思いだすことが出来るのであった。それから、部屋で、震えがとまらないでいる体から着物をぬがされながら自分が頻りに、よくて? 私は帰ったりしないことよ。よくって? と繰返したことも。涙で顔をよごした素子が、ああいい、わかってる、わかってる、と云いながらベッドに入れた朝子のまわりをきつく掛けものでつつんだ。とびとびにだが、情景がみんな思い出せる。けれども、それらは如何にも遠いことのようで、僅か一昨日の出来ごとと信じられないような気分がする。しかも、半分失神していたような状態から意識をとり戻した今、朝子が感じているのは、あのときまではまるで生活になかった一つの真新しい飾り気ない悲しみである。保が死んだ。――涙の出ない歔欷《すすりなき》のようなものが再び腹の底から起って仰向いている朝子の唇を震わせた。
 足許のドアがそっと開いて、素子が
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