技師と、一人おいた左隣りに坐っている白粉の濃い女との間に、何のきっかけからかトルストイが最後に家出をした気持がわかるとか分らないとか云う押問答がはじまった。技師は、間の一人をとばしてその女に話しかけるために縁無し眼鏡をかけた顔を食卓の上にのり出すようにして、「聰明なあなたにその心理が分らないことはないでしょう」というようなことを云った。するとそのエレーナという女は、「まあ」とどことなく自然でない昂奮のかくされた笑顔で、
「でもそれでは、良人として家庭への義務を忘れたことですわ。ねえ、マーリア・フョードロヴナ」
といきなり向い側にいる技師の細君に話頭を向けた。
「私はトルストイの場合として、理解されると思いますよ」
 白い髪の幾条か見える細君はおだやかにフォークを動かしながら普通に答えている。そこには何か感じられる雰囲気があるのであった。
 朝子と素子とヴェルデル博士と三人で、二|哩《マイル》ばかりはなれた野の中に建っている廃寺へ壁画を見に行って、ぐるりとその堂の裏手へまわったら、思いがけない灌木の蔭でその技師とエレーナと腕を組み合った散歩姿で来るのに出くわした。どっちからも、もう避けることが出来なかった。するとエレーナがはしゃいだ高調子で、
「思いがけないこと!」
 そのまま真直近づいて来た。
「お邪魔になりまして?」
 ヴェルデル博士は黒い帽子の縁にちょっとふれて、極めておだやかなうちに一抹の苦みをもって、
「私には誰が誰の邪魔をしたか分りませんよ」
 技師にも会釈して、こちらの一行は行きすぎた。そんなこともあった。
 土曜、日曜には、全くちがう若々しい波が停車場から溢れ出て、美術館を中心の一公園から街路から一杯になった。下宿の露台から見える公園の入口の歩道の上には向日葵の種売り、林檎売り、揚饅頭売りが並んだ。終日、髪をプラトークで包んだ若い娘たちや運動シャツにちいさい高架索《コーカサス》帽を頭にのせた若者、赤いネクタイをひらひらさせた少年少女が列をつくって通ったり、二人三人づれで行ったり来たりした。空気は微かに鼻をくすぐるように暑く埃っぽくなって、声量のある笑声や歌声、叫び声や駆ける跫音などがその中へ溶けた。
 朝子は露台から長い間そういう光景を見ていた。その溌剌とした、粗末な服装をした若者たちの動きのなかには、いかにも朝子の情愛をひく何かがあった。見ているうちに、急に涙がつきあげて来ることもある。若い保がもっていたそのような単純な気持のいい身振り、そのような罪のない大笑いがそこにあった。生きて、無心にそこに溢れているのであった。保は死んだ。何たる思いだろう。
 朝子たちが出発して来たのは去年の冬であったが、その夏芥川龍之介が自殺した。四年ばかり前有島武郎が軽井沢でその生涯を終った時、朝子は佃との破綻が収拾つかなくなって非常に苦しんでいたときであったから、そのことから深い震撼を蒙った。恋愛というものがそれぞれの男女の成長的な面に立って生じるとだけ思うことは誤りであって、現実には互の破滅的な面がひきあうこともある、そういうことを示されているように思った。実際にはもっと複雑ないくつかの面がその作家の死の動機になったのだが、その時分の朝子には、自分の境遇から特にその面がつよくうけとれたのであった。
 芥川龍之介の葬式のとき、文学の仕事をしている朝子は、白い清らかな故人の柩のまわりに燦めきながら灯っているたくさんの蝋燭の綺麗な焔を見守って、総毛立ちながら、時々頬に涙をつたわらしていた。朝子はこの作家の才能は知っていたが、好きかときかれれば、肯定した返事は出来なかった。けれども、その死には、心をうつものがあった。精一杯がそこで挫折しているその姿でうつものがあった。二人の作家の二つの死をつなぐ四年の間に朝子は妻の境遇からぬけて、そのときは、いろんな題材でどうやら小説が楽に書けるということ、そしてそれなりに書いているということが果して芸術家としての存在を意味づけるに足ることなのだろうかという疑いを抱く心になっていたのであった。
 三十五歳で命を絶ったこの作家の死は、それ故有島武郎の場合とはおのずから異った内容で朝子に衝撃を与えていた。保は高校生であった。いろいろの生活ではもとより芥川龍之介とまるきりちがうのだが、保の死の報告をうけて日が経つにつれ、朝子の心ではその二つがつながりをもつようになって来た。青いメリヤスの運動シャツなんか無雑作に着て、かぶった帽子を片手で前のめりに押し出しながら何かしきりと論判していた青年が、急に嬉しそうに白い歯並を輝やかしながら笑い出す様子などを眺めていると、朝子は、肉体の青春というばかりでなくそこに見えている歴史の世代の青春のありようというものはどういうものだったろう、そう考えるといつしか朝子の心の奥が遠い
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