広いところへ拡って、そこには、白い柩とそのまわりに燦いていた焔の色が現れ、無限の哀れを誘われると同時に、それが答えではない、と自身としての答えを執念《しつこ》くもとめている自分に心附くのであった。
朝子が電報をうけとって間もない或る朝、五十ばかりのダーシャという女中が部屋掃除に来て、箒を入口の壁に立てかけると、縞の前垂で手をふき、お悔み申しますよ、とその手を朝子にさし出した。
「弟さんでしたですねえ。大方学生さんでおいでたんでしょうね。こちらでも、もとは随分そういうことがあったもんでしたよ」
そう云ってダーシャは、鎮魂の祈りを誦《とな》え胸の上で十字を切った。ダーシャは字を知らない女であった。日曜の溌剌とした人波を見ていて、朝子はこのこともよく思い出した。そしてダーシャが過去の云いかたでそれを語った、そのことについて思った。
その下宿に滞在する最後の週に朝子は国から電報以来初めての手紙をうけとった。封筒は父の筆蹟であった。なかも父だけが書いていた。お前が知りたいだろうと思うから苦痛を忍んで書くという前置で、細々と前後の有様が述べられていた。保は温室のメロンにつかう薬品で死んだのであった。「その二三日来特に暑気甚しく」というようなところに父だけおいて皆は避暑に行っている留守の家の気配や父親としての追懐が滲み出ていた。白絣にメリンスの兵児帯をしめた保はその日の午すこし前、女中部屋のわきを通って、ちょっと友達のところへ行って来るよ、と云ったそうだ。昼飯はあっちで食うからいいよ。女中が、では晩はどうするかときいたら、歩きながら、それもついでに御馳走になって来ようか、少し図々しいかな、と笑って門の方へ出て行った。それから戻ったことは誰も知らなかったのであった。
九月初旬の日曜で、表側の朝子の部屋は人通りがうるさく、素子の室で、朝子は読み終った分から一枚ずつ書簡箋を素子にまわした。二日経って漸々《ようよう》保が発見された時、猛毒アリと大きく書いた紙が貼ってあって半地下室へ入れず、外から僅にガラスを破壊して一刻も早く空気交換をせんとすれども、折から雨にて余の手にある煽風機は間もなく故障を起し、というところへ来たら、朝子は涙が出て読みつづけられなくなった。その雨には父の涙がまじって流れた。光景はまざまざと目に映るばかりである。朝子はくいつくように何度もそこを繰りかえし読んだ。多計代を愕ろかせないようにと、わざわざ使がやられた。その使はわざと、保さんは来ていませんかと云って、当時多計代やつや子のいた田舎へ行った。その先へ読み進んで、朝子は涙も渇いた二つの眼を瞠《みは》って居住まいをなおした。三月下旬に一度保はストーヴの瓦斯を出し放しにした室にいるところを深夜発見され、その夜は母も保も共に泣き云々。保さんは来ていませんかと云えば、それが多計代にとって十分一つの暗示になり得る状態だったとは、何事だろう。温室のことでこの春多計代から来た手紙の調子を朝子は閃くように思い出した。同じことについて、僕は大変愧しいと思った、という文章の下にアンダラインした保の心持も、今は全く別な複雑さ鋭さで理解されることであった。温室が建てられたのは、その直後だったのだから。この夏は一つ大いに愉快にやって見ようと思う、といって来たのも、保の心にはサスペンスとしてあった気持の明るい方への最後の一揺れだったのだ。それらすべての局面は朝子からひた隠しにされていた。それは母の希望によってそう計らわれていた。では父は? そういう問いが朝子の心におこった。父もまた、この不健全にいり組んだ家庭内の局面に対しては、最後まで何もなし得なかったのだ。悲観にとり乱した多計代の姿は手紙のなかに伝えられていず、そこには、田舎からかえって来ると、清浄無垢な保に対面するには心の準備がいると云ってその夜は寝室にこもっていて、翌朝紋服にきかけて保の遺骸の安置された室へ出て行った多計代の様子が語られていた。この場合清浄無垢とは、保の死に恋愛がかかわっていないという表面のあらわれについて云われているのであった。
仕舞の一枚を素子に渡してしまうと、朝子は沈鬱きわまる相貌で、窓の前まで枝垂れて来ている中庭の楓の葉の繁りに凝っと目をやった。古びた黄っぽい建物の翼に射している斜光が楓の葉の繁みを裏から透していて、窓べりはそとの濃い緑の反射で空気まで染められているようである。読み終って素子も口をきかない。そうやって暫くいた。
どこか遠くにきこえていた手風琴《ガルモシュカ》が、今度は公園のすぐ近いところで鳴り出した。それに合わせて、非常に甲高な、野原や山なら何処までも徹りそうな男の声が旋律をひっぱって急に調子の迅まる民謡風な歌のひとくさりを謡うと、一斉に手ばたきが入って、ヘイ! 何とか何とかと活溌な合唱が続いた
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