び、瞼をぱっちりとあけきらず半眼のようにしてその下から瞳の閃きを見せている。その表情を細かく思い浮べると、朝子は我を忘れて揺椅子から立ち上った。
もう一つ思い出したことがある。あの時、保は何と云ったのだったろう。駒沢の奥にあった素子と二人住の家を畳んで、本をつめたビール箱を、佐々の家へ運んで来た。なかで、もし欲しいと云ってよこしたら送って貰いたいという分を別にして、保を呼んで見ておいてくれと頼んだ。その時も制服のまま勉強部屋から下りて来た保は、何と云ったのだろう。責任をもって失くなったりはしないようにしておいてあげる。そんな風に云った。云いかたの調子に、どこか直接自分とは離したところがあるようで、朝子はそのときちょっと変な気がした。弟の冷淡さのように感じられた。あの頃から、彼の心に何か計画がされていたのであったろうか。
柔毛の生えた保の若々しい上唇のところや、細かいほそい横書きのノートでならされた手紙の丸い字が忽然と目に浮んで来て、朝子は露台を歩きながら涙をおとした。最後に貰った手紙で、保はこう書いていた。「姉サン、僕はこの夏は一つテニスでもやって大いに愉快にやって見ようと思います。科の選定はそれからのことです」その前のたよりでは、大学の科目をそろそろきめなければならないが多計代が哲学がいいというし自分もそう思うが、どうかとあった。その時分まだモスクワにいて、白夜のはじまりかけた永い夕暮の明るみの中で、朝子は哲学にはすぐ賛成出来ないと、書いた。保が長四畳の勉強部屋の入り口の鴨居に Meditation と書いた紙を貼りつけているのを、朝子は思い出したのであった。そういう気質と哲学とは、常識のなかで余り結びつきすぎていて、いやに思えた。哲学がいいという多計代の気持も分って、そしてやはりそこに反撥するものがあった。朝子は、その手紙の中でくりかえし、保がいい友達をつくるよう、その人と相談して根本的な生活をすすめて行くよう、夏休みにはうちの者とばかり暮さず友達と旅行でもした方がいい。そんなことを細々書いた。高校の仲間が、誰も誰も議論のための議論をしたり、自分の物知りをひけらかしたりするために討論したりするからいやだと、保がよく云った。それも尤のようであるけれども、同じ二十歳の高校生である保の言葉としては、朝子も沈着さとしてばかりは聴かれないのであった。
その一事につけ
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