を恥じると抗議したような、温和にして剛毅な文学の精神は、日本の当時に存在しなかったのである。
 十三年代に明瞭にあらわれた、この文化暴圧にたいする「こっちは[#「こっちは」に傍点]」「自分なんかは[#「自分なんかは」に傍点]」の考えかたが、窮極の現実において「こっち[#「こっち」に傍点]」の「純粋な文学性」をどんな目にあわせることになったか、また、自分なんかは、と測定した個々の人の文学の才能や人生への確信を、どんな過程で崩壊させていったかという事実を顧みると、惨澹たるものがある。
 野蛮な権力は、文学面で狙いをつけた一定の目標にむかって、ほとんど絶え間のない暴威をふるった。一人の人間の髪の毛をつかんで、ずっぷり水へ漬け、息絶えなんとすると、外気へ引きずり出して空気を吸わせ、いくらか生気をとりもどして動きだすと見るや、たちまち、また髪を掴んで水へもぐらせる、拷問そっくりの生活の思いをさせた。
 一九三二年の春から一九四五年十月までの十三年間に、日本の一作家たる私が、ともかく書いたものを発表できたのは、三年九ヵ月ほどであった。あとの九年という歳月は、拘禁生活か、あるいは十三年度の一年半、十六年一月から治安維持法撤廃までの執筆禁止の長い期間にあたっている。
 公衆の面前で、一定の人間を、これでもか、これでもか、というふうにあつかったことは、直接そういう目にあうものを極度に苦しめたばかりでなく、ある距離をもってそのぐるりをかこみ、その光景を目撃している、より多数の、より不安定な条件におかれているものの精神を毒することはおびただしかった。文学の領域において、作家の敏感性や個人主義の傾向は、この点で十二分に利用された。一九四一年(昭和十六年)の一月から、また、幾人かの作家・評論家が執筆禁止になった。三年前は、主として内務省がその仕事をやったものであったが、四一年には、情報局がこの抑圧の中心になった。噂では、けがらわしいリスト調製に無関係ではないと話される作家さえもあった。
 アメリカへの戦争準備を強行中の軍事力は専断のかぎりをつくした。情報局でこしらえたジャーナリストと役人との、執筆者リストのようなものを、そのころ偶然みたことがあった。それは、当時の輿論が、どんなにふみにじられたものであったかを証明した。ジャーナリストが、さまざまの意味から、執筆して欲しい作家をA・B・C級にわ
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