任になりますので――」
何年もおなじ系統の職業に従事してきたことが、短く苅った頭にも、書類挾みをもった手首の表情にもあらわれている事務官が、黒い背広をきて、私たちの入ったとは反対側のドアから入ってきた。課長と大同小異の説明をした。もし、書くもののどういうところが困るとわかれば、それらについてうちあわせてもよいと、中野重治がいった。
「いや、別に、どういう箇所がいけないという具体的なものでもないんでしょうが……ともかく、もうすでに、ある方は手紙をよこされて、御自分の立場を弁明してこられています。――そういう方にたいしては、こちらでも、至急考慮いたしますが――……」
私たち二人の作家の訪問は、一回きりで、つぎに、保護観察所という、刑務所の出張所のような役所で、内務省の役人との懇談会があった。そのときも、作家の側からは、生活権のことが主張された。その点については、まだ当時の事情では内務省としても考慮しなければならないふうであった。丸一年半という重く苦しかった時を経て、私たちは、またそろそろ、作品発表ができるようになった。
この昭和十三年の禁止の時は、当時まだ幾分の抵抗力と生気とを保っていたジャーナリズム、主として新聞が日本の文化全般の問題として、この暴圧をとりあげた。しかし、禁止のリストにのせられた作家・評論家たちの間に、統一された抗争は組み立てられなかった。ある種の人々が、さっそく、個人個人で、こっそりと役所へ連絡をつけ「自分として」問題の解決を急いだ。文芸家協会として、まとまった有効な抗議もされなかった。日本の文化は、もうすでに文化を守る生活力を失っていたのであった。
一九三三年の春、プロレタリア文化団体が壊滅させられた後、ファシズムに抗する人民戦線の問題、文学における能動精神がフランスから紹介されたが、近代の市民生活の歴史をもたず、封建保守の傾きのつよい当時の日本の作家の雰囲気の中には、いつも、こうむる弾圧は、左翼だからという考えかたに支配された。自身の文学を、左翼から、できるだけ隔離すれば、少くともこっちは、そして自分なんかは安全だ、という誤った測定がされていた。作家の中で、執筆禁止について、発言し、なにかの意味で正しくふれた人々は、ごく少数であった。ましてや、温和なチェホフが、壮年のゴーリキイを除名したアカデミーにたいして、自分がアカデミシャンであること
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