錯綜こそ、「伸子」続篇の主題であった。そういう主題の本質そのものが、当時の社会状態では表現不可能であった。
「おもかげ」「ひろば」そのほか一・二篇の未完の小説は、作者が、伸子の続篇をかきたがって試みた、せつなくて短い羽ばたきである。
「二つの庭」で伸子は二十七歳になっている。伸子は、社会認識の黎明にたっている。その客観のうすら明りのなかに、何とたくさんの激情の浪費が彼女の周囲に渦巻き、矛盾や独断がてんでんばらばらにそれみずからを主張しながら、伸子の生活にぶつかり、またそのなかから湧きだして来ていることだろう。
「伸子」で終った一巡の季節は、「二つの庭」で新しくめぐり来た一つの季節としての情景を展開している。そこには、いく種類かの愛と憎しみと混乱、哀愁と憐憫がある。そのどれもは、伸子の存在にかかわらず、それとしての必然に立って発生し、葛藤し、社会そのものの状態として伸子にかかわって来ている。伸子は伸子なりに渦巻くそれらの現実に対し、あながち一身の好悪や利に立っていうのではない批判をもちはじめている。日本の社会が、あらゆる階層を通じてとくに婦人に重く苦しい現実を強いていることは、人生を愛す気質をもって生れている伸子を一九二七年の空気のなかで、社会主義へ近づけずにいなかった。「二つの庭」で、伸子は、これまで人として女として自然発生にあった善意と理性が、人間行動にうつされた場合の形として、社会主義を見出している。しかし、「二つの庭」で、伸子は、まだそのような個人的善意の社会的行動に自分をゆだねてはいないのである。伸子は組織について無知であり、社会主義的な集団にも属していない。
「伸子」はやがて「二つの庭」からも出る。「道標」の根気づよい時期は、伸子が、新しい社会の方法とふるい社会の方法との間に、おどろくばかりのちがいを発見した時であり、伸子の欲望や感情も手きびしい嵐にふきさらされる。
 はじめ、ただ一本の線の上に奏せられていたアリアのような「伸子」の物語は、こうして、「二つの庭」においては、小さなクヮルテット(四重奏)となり、やがて「道標」では、コンチェルト(協奏曲)にかわってゆく。
 そして、「伸子」がそう変ってゆくことこそ現代のすべての人々の善意にとっての自然ではないだろうか。こんにちの社会で、理性ある平和を愛し、人間の尊重と発展とを願うひとは、ヒューマニティの課題とし
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