「伸子」を文学のらち内での現象としてしか見ていなかったことがわかる。
最近二三年このかた、「伸子」ははじめて読者の人生そのものによって、生活そのものによって読まれはじめた。この重大な変化に気づいたとき、作者たるわたしは感動を制することがむずかしかった。「伸子」は、とうとう作者がそれを書かずにいられなかった心持そのものにおいて同感され読まれ批評されるときが来たのだ。「伸子」は、「文学」から人々の生活そのもののなかに解きはなされた。そして、この一つの事実は、作者に日本文学に一つの重大な転機が来ていることを告げるのだった。すなわち、「伸子」に反映しているこの現象は、どんな権力も否定することのできない事実をもって、今日の人民的可能性の高まりと、生活意欲の覚醒とを語っている。二十数年前には少数の女性にだけ意識された問題が、こんにちでは大多数の若い女性にとって実感のそそられる社会的な現実問題としてうけとられている。
この事実の上にこそ、民主的な文学のゆるがすことのできない歴史的必然のよりどころがある。久しい間、現代文学の課題となって来た「私小説」からの脱却、伝統的な主情性の克服の可能も、文学が
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