あとがき(『宮本百合子選集』第八巻)
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)並木道《プリワール》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)小さな人々[#「小さな人々」に傍点]として生きつつある姿は、
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 この第八巻には、主としてソヴェト生活の見聞記があつめられている。モスクワ印象記は、わたしがモスクワで暮すようになって半年ばかりたった一九二八年五月ごろ、書き終えられた。これを書いたのは、モスクワ市をかこむ並木道《プリワール》のはずれにあるアストージェンカという町の狭いクワルティーラ(アパートメント)の一室だった。「子供・子供・子供のモスクワ」は一九三〇年に、同じアストージェンカのクワルティーラではあるが、こんどは前よりもひろい、そして静かな一室で書かれた。一九二九年の後半期をフランス・ドイツ・イギリスで暮したわたしは、ふたたびモスクワへ帰って来たとき、どんなにつよくモスクワの生活に漂っているよろこびの感情に心をうたれたろう。フランスでも子供を見た。イギリスにも子供はどっさりいた。だけれども、ほんとにまじりけない生きているよろこびでピチピチしている子供ら、新しい世代として成長しつつある子供らの新鮮で、こだわりなくて、そしてよその国のどこにもない社会的な保護のもとに小さな人々[#「小さな人々」に傍点]として生きつつある姿は、わたしを感動させずにおかなかった。国内戦や飢饉時代ののちに、夫婦がそうして安心して子供を産み、よろこびをもって育ててゆくことのできる大人のよろこびの揺ぎない深さも、しんから共感できた。すべてそれらのよろこびは、ソヴェト市民の一人一人が一九一七年以来、たえまないめいめいのたたかいを通じて自分たちのものとして築いた社会でつくり出された事情なのである。「子供・子供・子供のモスクワ」はそういう意味で、単にモスクワの物語ではない。子供を愛す、ということは、具体的なことで、心もちばかりの問題ではなく社会的行為の課題であることが実感される。一九二八年の春の終りに書いたモスクワ印象記では、まだ階級としてのプロレタリアートの勝利の意味を把握していなかったわたしが三〇年には、明瞭にその観点に立って書いていることも、二篇を対比してみて、興味がある。
「ロンドン一九二九年」も一九二九年の夏のロンドンで、十月にアメリカに経済恐慌がおこる直前のロンドンであった。そのころ、イギリスの失業者数は三百万人から四百万人もあった。高度に発達した資本主義国は、そのころ急速に資本の独占化にすすんで、いわゆる合理化の結果、どこでも慢性的な大衆失業にくるしんでいた。イギリスでマクドナルドの労働党が多数をしめて労働党内閣となったのも、生活を打開しようとする大衆の要望のあらわれであった。しかし、ごく表面しか見ることのできない一人の婦人旅行者であるわたしの眼に映った一九二九年のロンドンは、マクドナルドの労働党ではどうにも救いのない状態だった。ロンドンの東《イースト》と西《ウエスト》にある階級のちがい、生活のちがいが、同じイギリス人とよばれる人々の人生をはっきり二分していて、まったく別のものにしている現実をまざまざと目撃して、わたしは深いショックをうけた。ジャック・ロンドンが「奈落の人々」というルポルタージュを書いてロンドンの東《イースト》の恐ろしい生活の細目を世界の前にひらいてみせた。イーストは一九二九年にもやっぱりイーストだった。そこからぬけ出しようのないばかりか、悪化してゆく貧困にしばりつけられた人々の生きている地区だった。尨大な数の不幸な人々と、顔色のわるい、骨格のよわいその子供たちとが、自分たちの運命をきりひらくために勇奮心をふるい起そうともしないで、波止場の波に浮ぶ藁しべのようにくさりつつ生きている光景は、どんな眠たい精神の目も、さまさせずにおかないものだった。ロンドンの二ヵ月ちかい滞在が、わたしを回心しようのない折衷主義ぎらいにした。それは、偽善的である以外にありようのない本質のものであることを、わたしに見せた。
「ワルシャワのメーデー」「スモーリヌイに翻る赤旗」そのほかは、かえって来てから一九三一年にかかれている。「ピムキン、でかした!」は、その年のはじめに日本プロレタリア作家同盟へ参加してから、農民文学のための雑誌『農民の旗』へかいたものだと思う。小説の形をとっているけれども、題材は、ソヴェトの新聞にでていた農村通信の記事だったと記憶する。だから現実に或るコルホーズ(集団農場)に起ったエピソードであった。こんにちよみかえすと、小説としてはごく単純だけれども、それぞれの農村でコルホーズがどんな過程で組織されて行ったかということが、この一つの例によってわりあいによくわかる。その点が、い
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