にかかれ、複雑で困難な転向の問題をとりあげている。こんにちのわたしとしては、もう一つ二つのことに触れられていたら、もっとよかったと思うところもある。その主な一つは、治安維持法そのものの野蛮性の抉剔についてである。なぜなら、横光利一の心理主義がそこにぶつかって跳躍台としている「マルクシズムという実証主義の精神」というものの実体も、現実を掘り下げてみれば、ぶつかっているのはマルクシズムよりも、より手前にある治安維持法の威嚇である。多くの人は、人間が野蛮と暴力に耐えがたいという自然な弱さで――それだからこそ人民は非人間的権力や戦争に反対してたたかうことを余儀なくされるのであるが――生の防衛の本能にみちびかれて、行動せざるを得なかった。
こんにち、いくらかひろげられている発言の範囲で考えると、当時論じられた日本の転向の問題は論法のすべてを一貫して、観念的な傾きがつよく見られる。日本の治安維持法は、マルクシズムを放棄させ、運動から離脱することを要求したばかりでなく、更にすすんでその人がファッシズムに従うように強制した。マルクシストであったものこそファシストになるべきとされた。ここに、おどろくべく深い人間精神虐殺の犯罪性の一つがひそんでいる。転向して生を守ろうと欲する人は、自分にも他人にも顔向けのできない思いで、うそ[#「うそ」に傍点]をつき、仮面をつけて、現れなければならない。ここに転向というモメントから、多くの人々の精神が生涯の問題としてむしばまれ、根本から自主性を失って、マルクス主義者でなかったものより善意を歪められ卑屈にさせられて行った本質がある。
「冬を越す蕾」は、治安維持法のこのような非道さにふれていない。それはなぜだったろう。奴隷の境遇とその言葉が、ここにある。治安維持法に抵抗しつつ、その悪法について正面から発言できるものは、当時の日本の民衆の間にはおそらくいなかったのであるまいか。獄中で、非転向で、生命を賭してたたかっていた人々のほかには。
したがって、ジャーナリズムにあらわれる程度の転向についてのすべての論議は、第一の問題である日本の天皇制ファッシズムと、戦争強行に裏づけられている治安維持法の批判、それへの反抗はあらわさなかった。その重要な社会的・階級的モメントをとばして、転向をよぎなくされたプロレタリア作家、その個々の人物月旦。良心と勇気の問題。マルクシズム誹謗をこととした。こんにち客観すれば、当時の転向問題の扱いかたの多くは、本質において検事局的な匂いをふくんでいるか、あるいは、傷つかない傍観者の正義感の自己満足の要素がなくはなかった。
「冬を越す蕾」で、日本の近代社会にのこされている半封建性と、その影響をうけているインテリゲンチアの精神構成をとりあげていることは正しかった。治安維持法の犠牲となった作家たちが、転向の動機を、めいめいの個人的性格の問題、インテリゲンチアと勤労大衆との間にある思想的ギャップ――インテリゲンチアの観念性という理由づけで、作品化したことについての疑問を提出したことは誤っていない。それぞれの人の告白、傷魂の歌とするにとどまらず、せめては当時の日本のインテリゲンチアの負わされている社会的なマイナスの悲劇として、とらえられないことについて心からの遺憾をあらわしていることも、こんにちの同感を誘う。
「冬を越す蕾」のきびしい季節は、もう日本の歴史にとって、すぎてかえらない一つの悪季節であった、ということができるだろうか。日本の人民が進んでゆく歴史の道は、わたしにとって、単純だとは思われていない。民主主義革命とその文学とは、日本の全人民の、民主的な人間革命をこそ、広汎で重大な任務としてできる限りの熱意で達成してゆかなければならない。民主的で、人間的な社会進歩に対する善意を、普通の市民的標準の意志と肉体の堅忍とで保ってゆくことができる程度の民主社会をまずつくることが、とくに日本ではまじめに考えられなければならない。現代の非人間的なものとのたたかいが、そのたたかいに立っている英雄たちのためにだけあるものだとは、よもや考えられてはいないだろう。
日本の侵略戦争はとめどなく拡大されて行った。そして「非常時」が、あらゆる理性と文化を抹殺しはじめて横光利一の「高邁」の力よわさをあらわし、「自由な自意識」の存在は不可能であることを明瞭にしてゆくにつれ、日本の文化知識人の間に、文化擁護の欲求が湧いた。
一九三五年に京大におこった瀧川教授事件を動機として「学芸自由同盟」が組織され、一九三六年には小松清によって、その前年の夏、パリに開かれた文化擁護のための「国際作家大会」と、その成果である同じ名の連盟の誕生が紹介された。これは一九三四年八月、モスクワで第一回文化擁護国際作家大会がもたれたとき、フランス代表として出席
前へ
次へ
全5ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング