ことではない。一九三三年の佐野、鍋山の転向を筆頭とする大腐敗の徴候は、一九三二年三月のプロレタリア文化団体への弾圧以後、次第に日和見的な態度として文学団体の中へもあらわれて来ていたことの証拠である。
「一連の非プロレタリア的作品」に対する自己批判として「前進のために」が書かれている。「ナップ」常任中央委員会から左翼的逸脱の危険を、警告されたのであった。このときは、山田清三郎が、右翼的日和見主義の自己批判を発表した。当時「ナップ」の書記長は山田清三郎であった。「前進のために」をよむと、誤りをみとめつつ、なお林房雄などの卑劣さに対する本質的ないきどおりをしずめかねて、うたれつつたたかれつつ、なお自分の発言した心情の地点を譲歩しようとしていないわたしの姿が浮んでいる。
 当時の運動の困難な状態が、運動に熟達していないわたしにまで過分な責任をわけ与えた。作家であるわたしが、指導的[#「指導的」に傍点]なジェスチュアなどというものを知らず、同志とよばれるものの具体性さえ知らないで、未熟さをむき出しに心情的に行為したことについて、十六年後のこんにち、わたしはなお、いくつかの感想を抱いている。政治と文学との関係をふくむヒューマニティとその正義の課題として。
 この巻におさめられているもう一つの評論「近頃の感想」は、「一連の非プロレタリア的作品」から二年のち一九三四年にかかれたものである。このなかにも「一連の非プロレタリア的作品」のまきおこした渦巻とそれについての当時の感想がもらされている。
「一連の非プロレタリア的作品」をめぐってくりひろげられた当時の情景は、さまざまの角度から劇的な一つの図絵である。わたしとしては、この経験から根本的な一つのことを学ぶことができた。それは、作品批評とはどういう風にされなければならないかということについての、批評の階級性ならびに人間性についてのより深められた理解である。
 この経験から学びとられた教訓は、更に、それからあとにつづいたおそろしい混乱の長い期間をとおして、一層わたしという一人の階級的作家にとって重大な意味をあらわした。「一連の非プロレタリア的作品」をめぐる論争とその人間図絵の過程を通って、いわばわたしは、わたしとして真実身についた階級的抵抗力をもつことができたのであった。
 一九三三年以後のかしましく苦しい転向の問題、その問題がおこるような社会的心理を根底にもって、社会主義リアリズムの課題を、超階級的なリアリズムの創作方法として日本に紹介しようとする一部の人々の奔走。一九三四年には「非常時」という言葉が用いられはじめて、プロレタリア文学運動の組織が破壊されたのちの日本の文化・文学が見出したものは、全面的な混迷と貧血とであった。「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」は総括的にこの時期を展望している。プロレタリア文学運動の組織とその作家たちのうけた被害の姿を眺めて、居直ったブルジョア文学とその作家が、横光利一の「紋章」をかざして、一方に擡頭しつつあるファッシズムとその文学の警戒すべき本質をさとらずに、右にも左にもわずらわされない「自由な自意識の確立」に歓声をあげていた情況は、まざまざとうつされている。天皇制の「非常時」専制があんまり非人間的で苦しく、重圧にたえることに疲れたプロレタリア作家のある部分も「自由な自意識の確立」に魅惑された。この当時の状態をよむ人は計らず太宰[#「太宰」は底本では「大宰」]治の生涯と文学とに対して、民主主義文学の陣営から、含蓄にとみながらその歴史性を明確にした批評が出ることの意外にすくなかったことを思い合わされはしないだろうか。
 当時小説の神様のように眺められていた横光利一のこの「自由な自意識の確立」論の水源は、「マルクシズムという実証主義の精神」に「突きあたって跳ねかえったものなら、自由というものは、およそどんなものかということぐらい知っていなくちゃ、もうそれは知識人とはいえないんだ」というところにあった。そしてその自由というのは「自分の感情と思想とを独立させて、冷然と眺めることのできる闊達自在な精神なんだ」といわれている。ここから、当時文学青年の間に大流行をきわめた横光の観念的な心理主義が生れた。やがて無人格な三人称の私というものが発明されて、客観的な現実世界と主観的自我との間の機械的な接続器の役を負わされるようになり、作家が現実への責任をとわれる純文学から一種の通俗小説に移って行くこととなった。この時代、横光利一は、彼の心理主義の支柱として小林秀雄の評論活動と結びついた。横光利一の「高邁」と「自由な自意識」がファッシズムのもとにどんなに圧しひしがれ同調したかということは後にあらわれる「厨房日記」その他において示された。
「冬を越す蕾」は、同じ一九三四年の十一月
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