年前の、この文化擁護の運動の経験から多くのものを学びとっている。こんにち、平和擁護と独立のために自身の立場をあきらかにしている人々のなかには、かつて、新しいヒューマニズムの希望を奪われた人々、計らずも自分たちの手からその希望の鍵を奪いとらせた経験をもつ人々を包括している。
 ファッシズムに反対する運動は、非人民的権力に対して譲歩的でない本質に立たずにはあり得ないこと。文化を擁護するということは、市民的自由と基本的人権の擁護なしに存在しないことが、こんにちでは、自明となっているのである。
 ファッシズムへの抵抗、平和擁護の一つをとってみても日本の人民的民主主義の全局面が、現在どんなに国際的条件にかかわりあって来ているかがよくわかる。
 異国趣味《エキゾティシズム》を通じて、より進んだと信じられている文化形態を通じて、民族の人民的文化の質が隷属状態に変化してゆく危険がある場合、国際性《インターナショナリティ》は、はっきり、ブルジョア文学の個人主義にたつ世界人主義《コスモポリタニズム》と区別されなければならない。また、観光用国土、人民としての国際性から区別されなければならない。
 これまで日本の市民生活に正常な国際性はかけていた。日本人民は世界を意識した明治のはじめに、もう世界を、競争の相手、負けてはならない国として教えこまれた。ひきつづいて超国家主義の大東亜共栄圏の観念にならされた。こんにち、かつての大東亜圏の理論家のあるものは、きわめて悪質な戦争挑発者と転身して、反民主的な権力のために奉仕している。
「プロレタリア文学における国際的主題について」は、それらの問題についてある点を語っているが、この評論のなかには、きょう、一つの参考となる経験が語られている。
 それは「ズラかった信吉」の失敗にふれている箇所である。当時、わたしは、この作品の失敗の理由を、大衆的なものがたり形式にせず小説とした点においている。しかし、こんにちになってみると、「ズラかった信吉」の失敗の原因は、単にそれだけではない。というよりも、その失敗にふくまれて、研究されていいいくつかの問題があることが理解される。そこには、こんにちの民主主義文学運動のなかでさえも、右や左へゆれながら論じられている文学の「大衆性」「啓蒙的役割」の理解の問題がひそめられているし、各作家の特質についての具体的観察の問題があり、創
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