していた人々の報告から刺戟されたものであった。
 パリの文化擁護の大会ニュースは、混迷停滞しきっていた当時の日本の文化人、文学者に、新しいヒューマニズムの希望を与えた。新しいヒューマニズム、その能動精神、その行動性という観念がよろこび迎えられて、間もなく雑誌『行動』がうまれ、舟橋聖一、豊田三郎その他の人々が、能動精神の文学をとなえはじめた。
 一方では、前年ヴェノスアイレスの国際ペンクラブ大会に日本代表として出席した島崎藤村が、大会の反ファッシズムに高まった雰囲気から、彼独特の用心ぶかさで日本の立場[#「日本の立場」に傍点]を守ってかえって来て、日本ペンクラブの創立に着手しはじめている時であった。また他の一面では、これも日本に独特な治安維持が化物の眼を見はって、日本におこった能動精神、新しいヒューマニズム、反ファッシズム文化擁護の運動が、実践的な力をもたないようにと監視しつづけている。それらの事情に加えて、文化の擁護、新しいヒューマニズムを提唱しはじめた人々自身が、その心理に、つよいプロレタリア文化・文学の運動忌避の要因をひそめていたから、一つ一つ、曲り角へ出るごとに、この運動には階級性がないこと、プロレタリア文化運動の再建ではないこと、階級意識をもつ人はボイコットすることを証明しなければならなかった。ファッシズムに対して文化を擁護し、新しいヒューマニズムに向って能動であろうとする人々が、自身の文化を抑圧し、運動を骨ぬきとする自分の国のファッシズムそのものとのたたかいは、極力回避しなければならなかったというのは、何という呪うべき矛盾であったろう。当時のリベラリストは、ファッシズムというものが、どんなに野蛮兇猛であるかを十分理解せず、リベラリズムの範囲は、リベラリズムそのものだけの力で防衛できるかのように考えた。その結果はどうであったろう。うちつづく戦争と理性殺戮の年々に、日本の文化と文学にのこされたものは荒廃でしかなかった。そして、軍部と軍国主義教育は前線で、日本人民がそれを自分たちの行為として承認することを不可能と感じるほどの惨虐が行われた。敵という関係におかれた他の国の人々に対して。また日本軍の兵士たちに対して。(この記録は一九四九年になってすこしずつ発表されはじめている。)
 一九四八年ごろから、日本におこっている平和と自由と独立のための広く大きい戦線は、十数
前へ 次へ
全10ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング