が、どんなに巨大な機構のうちの小さくて消極的な断片であり、しかも海岸の棒杭にひっかかっている一本の枝とそこについているしぼんだ花のような題材にすぎないかということは理解しなかったのである。
 作品の年代でいうと、次にかかれたのは「小祝の一家」「鏡餅」「乳房」「突堤」である。「小祝の一家」「鏡餅」「乳房」どれも今から十四五年前、日本で民主的な文化運動さえも権力によって暴圧されていた時代、人間らしい正当な活動はひそかに組織され、多くの犠牲をもって実行されていた頃の出来ごとがかかれている。これらの作品のなかで、その頃、あいまいな奴隷の言葉でしか表現されなかった箇所は、わかるように埋めた。「鏡餅」は一九三四年一月八日にかかれている。その十三日前、宮本がスパイの手を通じて検挙された。ひどい拷問にあっていることがわかった。妻には着物のさし入れさえさせなかった。正月二日に山口県の田舎へ行って、宮本の母を東京につれて来て、面会を要求し、やっと生きている姿をたしかめた。以来十二年間宮本の獄中生活がつづいた。一月十五日には私も検挙された。その切迫した数日のうちに、苦しい涙が凝りかたまって一粒おちたという風にこの短篇をかいた。そして『新潮』に発表した。「鏡餅」はこんどはじめてこの本に集録された。一九三〇年の暮日本プロレタリア作家同盟に参加し、「小祝の一家」あたりから、進歩的な作家としての作品が少しずつかかれるようになった。「乳房」は、プロレタリア文学の運動に参加してからの一番まとまった、努力した作品であった。ソヴェトに翻訳された。一九三五年四月に中央公論に発表されて間もなく五月十何日であったかに、再び検挙された。
「おもかげ」「広場」二つとも一九三九年の暮にかかれた。きょう読むと、どっちも、ほんとに苦しい小説である。主題が緊張しているばかりでなく、云いたいことを云わせられず、書きたいようにかかされない、その手枷、口枷のなかで、もがいたり呻いたりしている作品である。しかし、作者とすれば、段々戦争が進行して来て野蛮なファシズムの圧力が文学を殺そうとすればするほど、人間として作家としての一生に、深い関係をもった弟の自殺前後のことやソヴェトから帰る前の心もちが、かえりみられ、書かずにいられなかった。
 この第四巻には、「一本の花」「赤い貨車」をのぞいて、一九三二年から一九四五年八月まで、進歩的な
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