強い女の性格としてだけ扱っていることも、また、私たちを考えさせるところだと思う。「私」というものが抽象の言葉でなく日夜の現実に生きている実在であるからには、虚空に生存することは出来ない。スーザンにしろ、マークと結婚し、ブレークとの結合に入り、そして、これらの男たちと同じ時代、同じ社会の歴史を閲《けみ》しつつあるとすれば彼女としても性格が抽象に発動するのではなくて、彼女の生活の属している社会層の特徴や限界や歴史性をも私というもののうちにこめてもっているはずである。
私はいつも私であっていいのだ、という女によって意識された主張が、やがてそんな主張の必要がないほど女も社会関係の中での制約から解かれるまで、これからも永い年月叫びくりかえされて行かなければならないというのは、何と切なくまた意味ふかいことだろう。「この誇らかな心」を読むと、アメリカの社会が、女にここまでつよく生きさせる可能を与えている一方に、なおこのような小説をパール・バックにさえかかせるような女としての苦悩の要因をふくんだ習俗におさえられている社会であること、女に生れたことをくやむ言葉が女への讚歎として男の唇から洩されるような
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