という一つの部分に女の全面的な生活が集注され、妻としてあますところなく吸収されていなければならないというのは、女としてやはり何か苦しいところがある。
 とり出してこのようにいえば分りやすいこのようなことが、現実の日常ではわからないことの姿で行われてゆくところに、歴史が示す段階の制約がある。
 スーザンは、生活のあらゆる経験がただ無駄に消え去るものではないという感覚の中で、人類の前進への漠然とした信頼を示している。けれども、彼女は、人間が人間を理解してゆく輪がそんなに狭く小さくめいめいに主観的でしかないという悲しみが、何処から生じるのかというところまでその悲しみの原因を追究してはいない。そういう輪のせまく苦しい主観的な限界は、まだ私たちの社会生活がそのなかに生きる個人個人に本当の社会的共感、理解を可能にさせるほど前進し高められていず、一人一人の生活感情の主観のなかに大きくひろい社会のかげが映され生きられていないからであるという点までにふれて行ってはいないのである。
 そう考えて来ると、スーザンが「私はいつも私であっていい」と思う、その私というもののなり立ちについて、作者がそこに或る一つの
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