ンのその心持の核心をついに掴めなかったということは何という悲劇であったろう。自分が彼女にとってなくてはならないものであって、同時に彼女は彼というものだけで満足しきれないものをも持って生きているのだということを、マークはついに理解出来ず、遠いところを見つめている女を愛しつつ生への執着力をうしなってしまった。
 読んで来て私はこの小説がアメリカの婦人作家によって書かれたということを二重の意味で考えた。なぜならアメリカは、世界のなかでは女の尊重されている国ということになっている。個性の自由ということが云われていると思われている。それでも、女の生活の現実の道にはこういう痛切な苦悩が横たわっているということは、私たちに何を考えさせるだろうか。
 日本の社会のしきたりは、若い女性の生活を見ることに、男の習慣がまだまだ多くの昔ながらのものを持っている。教育一般にしろそうで、小説を例にとればモウパッサンの「女の一生」に描かれているジャンヌの生涯が決して珍しい例外ではない。しかも、その一方で若い世代は、形のちがう内容で、「この誇らかな心」のスーザンの苦悩を理解するようにもなって来ている。実感としてわかるようになって来ている。しかも、一般の習俗はスーザンの苦痛がわかる若い女の心は、例外だとするだろう。そこに日本の若い読者がこの小説から受ける複雑なものが考えられて来るのである。
 マークの死後、放心の状態におかれたスーザンは、ある夜眠られぬままに、群像をこしらえかけたままにしておいた納屋へ、ランプをもって入っていく。マークはもうこの世にいない。その恐怖は何と寒く烈しいだろう。その恐怖からのがれる道は、スーにとって燃えるその手で何かすることよりしかない。再び粘土がとりあげられた。彼女が何を創ろうと、もう愛する者の心を傷つけることはないであろう。スーは、孤独の代償として自由を甘受して、その群像を完成させた。マークは生前、この群像の女が、手に子供を抱きながら、その目ではどこか遠くを見ている、それを指して、君そっくりじゃないか、と非難めいた苦しい顔をしたのであった。
 群像を仕上げたスーは、ついに息子のジョン、娘のマーシャ、忠実な召使いのジェーンをつれてパリへ赴いた。一年分の金がある。その一年に、次の一年分を働き出さなければならない。スーザンは或るフランス人の仕事場《ステュディオ》に通って種々の
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