『この果てに君ある如く』の選後に
――ここに語られている意味――
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)にせ[#「にせ」に傍点]ボートをつかまされていたのかもしれない、
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 これらの手記の選をして何よりもつよく、そして深く感じたことは、日本の社会は、女を、ひとり立ちで生きてゆかなければならない人として、子供のときから育てて来ていなかった、といういたましい事実である。歴史のはげしい波はこれらの女のひとたちから、生活のボートを漕ぎ手といっしょに奪ってしまった。溺れて死ぬまいとする婦人たちは、子供たちをかばいながら、そのためにあがきは一層不自由になり、疲れを早めながら、みんな自己流に水をかいて、やっと水面から顔をあげている。
 手記のほとんどすべてが、そういう印象を与える。したがって、目前にもがいている、そのせつなさ、その叫びが精一杯であって、どうして生活のボートはひっくりかえされたのか、漕ぎての責任よりもあるいはボートそのものが、にせ[#「にせ」に傍点]ボートをつかまされていたのかもしれない、などという考察は、系統づけてされているゆとりがない。もがきの間に、ちらり、ちらりと頭を掠めている。生活との経済的なくみうちが前面にのっていて、しかも、これまでの日本の社会では、経済上、自立した一つの単位として見られることのなかった主婦、母たちのもがきであるために、苦悩と混乱とは名状しがたい。手記をかいている少数の人々の生活でさえそうなのだから、その日その日を、どうかして生きつなごうという、もがきで疲れ果てている二十八万余人の人々の姿と心もちは、思いやられるのである。
 生別、死別ということは、社会主義の世の中になっても人間の生活にはつきまとっているだろう。苦痛と悲しみのモメントとしてあるだろう。けれども、このたび応募されている手記のように、戦争によって夫や父を殺された妻、母の苦しみは、人間生活におこる一般的な生別、死別の問題とは、本質からちがっている。戦争によって人生の道づれを殺された人々は、ほんとは戦争にその人たちを狩りたてた自分の国の権力そのものによって殺された人たちである。敵にころされた、というその敵の本体は、年々歳々の税によって養って来た厖大な軍事的政府の権力なのだった。
 戦争によって配
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