信ある発展的・前進的活躍がないフラフラ雰囲気に飽きた一般人をその窮屈さも或る快感として把えるところとなっている。更に、「夜明け前」を読まぬ者まで昨今はそれを一応尊敬するのが常識となって来ているということ、現代の人々が或る大きい事業(文学的にでも)をひどく求めていながらそれを自身やる根気もなく、又すっかりやられて目の前につきつけられなければそういう努力の過程をも野暮なことのように感じる神経衰弱症。そういう心理的な点は、私がなかで文章というものの諸問題について考え、藤村の文章に非常に特徴を発見し、それを浅くではあるが考えて見たときからの興味の中心です。
藤村が「あらゆる存在と必然とを肯定するに到った」その謎の説明として、貴方が藤村の社会的・階級的制約をあげ、小市民的インテリゲンツィアとしての観照的態度をあげてあるのは誤った解釈ではないと思いますが、彼が自分の長男をわざわざ木曾にかえして小さいながら自作農[#「小さいながら自作農」に傍点]として暮させているところ、人生的な意味で「百姓の道」に対する藤村のつよい肯定的執着、その地味な根づよい営み[#「営み」に傍点]ということに幸福と「中庸の道
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