ものも負っているということを(即ちマルクシストでない自分だって時代の動きに負わされているものがあるという心持を)たて[#「たて」に傍点]糸としていることはたしかですね。だから貴方も書いていられるように、客観的に描かれているようで、全篇実に主観的である。このことは「夜明け前」の文章、描写の方法――貴方が「読み辛い苦汁のような」と言っていられる文章にもあらわれていると思います。
 そしてこの文章の特徴は、作家藤村の本質的なものの表現として、「夜明け前」・藤村が批評される場合におとしてはならぬ点と思う。リアリスティックであるようだが(場面の登場人物、その動作、言葉、たとえば土地名物の餅のたべかたまでこまごまと書いてあるが)読者はそれがすべて藤村流の気分・心持で圧えられ、思い入れを伴って描かれ、人物自体、動作自体が地の文の上に浮動して活躍していないことを感じる。ダイナミックでない。自由でない。精緻であるが、縫いつぶしの刺繍を見るようなものを感じる。この窮屈な文章が藤村の気組みの反映、或は堂々さとして現代の人々に尊敬されることに、現代文学の貧弱さ、同時に健康な若い文学的反抗心のよわさ、確信あり自
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