「迷いの末は」
――横光氏の「厨房日記」について――
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)河豚《ふぐ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)複雑|極《きわま》る質問に、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)ヴル※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ール
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『文芸春秋』の新年号に、作家ばかりの座談会という記事がのせられている。河豚《ふぐ》礼讚、文芸雑誌の今昔などというところから、次第に様々の話題へ展開しているこの記事は、特に最後の部分、二・二六と大震災当時の心境についてそれぞれの出席者が所感を語っている部分に至って、読者の感想を喚《よ》び出す幾多のものを示している。徳田秋声、菊池寛、久米正雄等の作家たちが、震災以来今日までの十五年間に生きて来た社会的な道すじ、及び今日それぞれの人々が占めているこの社会での在り場所というものを、自ら読者に考えさせる言外の暗示を少なからず含んでいるのである。
 この座談会で、次のような話が交わされた。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
徳田秋声「パリから白鳥君(正宗)が手紙をよこしてね。こっちに又来たけれども、退屈な日を送っていると云っているのだね。今度はお寺やなんかばかり見ている。鞄の中に西鶴のものが一冊入って居って、それが今一番ぴったり来るというのだね。向うのことは何にも分らんという。そんなことが書いてあった」
久米正雄「白鳥氏なんかよく享楽しているよ」
徳田秋声「そりゃそうですな」
[#ここで字下げ終わり]
 短い言葉のやりとりの裡に、語る人々、語られる人の風貌が躍如としていて、まことに面白い。全く白鳥という人は、世間並より或はずっとよく、そして巧に享楽もしつつ、退屈げな顔つきを日常の間にも作品の中にも漂わす作家なのであろう。向うのことは何にも分らない、なりにこの人は落付いている。彼を落付かせているものがよしんば何であろうとも、彼はそれを旅券や財布とともにパリの真中でも落しっこない人なのである。
 横光利一氏はそうはゆかない。向うのことは何にも分らないで白鳥のように安心も出来ないし、同時に此方のことが何にも分らないでも通用しかねるという苦しい自覚におかれた。『改造』新年号に「厨房日記」を読んだ人は、おそらく梶という名で立ちあらわれている一人物を通して作家横光の複雑な苦境と混乱とそれに何とか恰好をつけようとしてとられている身振りの貧寒さを感ぜざるを得なかったであろうと思う。
 この錯雑した作品の中にも、実感のある幾つかの小さい箇処がある。例えば梶が帰朝第一日、浴衣に着換えて妻の実家の十二畳の広間にひっくりかえった時、組みあげた足の先と妻の指先とが思わず触れあった瞬間の含羞。久しぶりで自分の子供の幼い顔を打ち眺めつつ、自分の見て来た世界の実際の大きさに今更ながら驚く気持など、読者にそれなりの心持としてふれて来るところも無いことはない。然しながら、全体としてこの一篇の作品が提出しているものは、世界の東西を貫いて、波浪高い今日の社会における矛盾相剋の間で、意識的に体をしゃちこばらせつつ遂に揉みくしゃとなった人間の姿である。
 鴎外以来、日本の作家はそれぞれの歴史的な時代に、それぞれの事情をもって海外への旅行を試みた。漱石も藤村も彼等の作家的発展の過程から、ヨーロッパとの接触をぬいて云うことは出来ない。円本時代に頻出した作家たちの海外漫遊は、ある一部の日本の作家達の経済的向上を語ったと同時に、微妙な独特性でその後におけるそれらの作家達の社会的動向に影響を及ぼした。
 一九二九年以来、世界の事情は急変した。久米正雄氏が嘗て美しい夫人を伴ってアメリカ人と肩を並べ悠々漫歩したパリのヴル※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ールには、きょう、その時分にはなかった種類の示威行列がねっているそうである。与謝野晶子、藤村などが詩を語って、思い出の中にまざまざ生かしているであろうカフェー・リラで、今日声高く談ぜられているのは常に必ずしも、文学、音楽のことのみではない。横光氏は座談会で云っている。「外国の文士というものは聊《いささ》か政治批評をやっているね」と。
 大体、外国人から、あなたの国はどういう国ですか、と訊かれたとき、返事に困らない者はないであろう。アメリカ人やフランス人たちが日本へ来てもこういう困難には一度ならず出逢うに違いない。だがそれは、日本人が外国へ行った場合に遭遇する困難とは比較にならないと思う。何故なら、アメリカにしろフランスにしろ、外国の文化人の理解の中に浸みこんでいるそれぞれの国の概念というものは現実の生活とあらましぴったりしたものである。フランス風というと、その一言が多くの内容を一括して或る感じを与え得る。ところが日本というところは、過去においては余り東洋の幻想の中につつみこまれていた。蝶々夫人、お菊さん、小泉八雲の描くところの日本。それらはいずれも昔の日本の或る一面、或はそれが嘗ては日本であったところのものを、語っているかもしれないが、何しろ一九二九年以後の日本というものは、国際関係の現実の中で極めて現実味の強烈な或る意味で露骨な進退をしているのであるから、小泉八雲の気分的日本の描写では、外国人として日本を掴み得たと感じられないのは自然である。まして、昨今の日本文化輸出熱は、その本質において、残念ながら多くは外国の人々の日本に関する不十分な先入感、お蝶さん的趣味に追随した程度のものであるから、日本文化と称するものの輸出熱が嵩じれば嵩じる程、一層現実日本の挙止が日常に与えつつある印象と日本的と称されるものとの間にギャップが目立って来ざるを得ない矛盾におかれている。
 トリスタン・ツァラアがモンマルトルの客間で日本の作家ヨコミツに「日本はどういう国ですか。僕は他の国のことなら何処の国でも多少は想像がついているのだけれども、日本だけは少しも分らない」という質問を出したことの中には、日本が皆目分らないのではなく、日本について彼に分っている或ることと或ることとの間の、人間的・社会的必然の繋《つなが》りが分らない。つまり、日本のそのこととこのこととが、どういう関係で日本人の心の中にそのような形で在り得るのか、そこがどうも見当つかないという内容をもって来るのである。聊か政治的批評もする[#「聊か政治的批評もする」に傍点]ヨーロッパの文士は、日本人絹業の興隆、その背後の力とリオンの絹業者の破産との相互関係も知っているであろう。又、スイスの時計生産を圧迫している日本製時計、自転車の大量輸出と日本の世界最低の労働賃銀のことをも知っているであろう。中国と日本とが、東洋においてどのような関係にからまれているかをも知っていよう。そういう、日本の面と、能や端午の節句や桜花爛漫を撮影している国際文化振興会などの、日本紹介映画との間に、どういう血が通っているか。否、普通日本人と呼ばれている多数のものの平凡で苦労の多い実生活の裡にこの二面はどんな形で、どんな有機性で渾然とし得ているのか。一九三六年におけるツァラアの日本についての質問の実体は至って複雑であり得るのである。
 そもそも、作家としての、横光氏は、その文学的出発の当初から、現実の或る面に対しては敏感であったが、その敏感さの稟質は、一箇の芸術家として現実を全面から丸彫にしてやろうという情熱において現れず、常に、現実の一面にぶつかってそこから撥《は》ね返る曲線を自意識の裡で強調する傾向で現われた。横光氏は作家として先ず、志賀直哉のリアリズムに反撥して新感覚派と呼ばれた一つの曲線をみずから描いた。ところが、その曲りの果てでプロレタリア文学にぶつかり、そこから撥ねかえったものとして渡欧まで主知的と云われた主観的作風にいた。このことは、人間及び作家としての横光氏の生き方を観た場合、見落すことの出来ない、一つの特徴である。現実につき入り、それを窮めようとする作家的情熱の型をもし仮に鑿孔性と云い得るとすれば、横光氏の作家的情熱の型は実に硬緊性である。対象のないところさえ対象を描いて、自意識を主観の中で、緊張させる人である。この横光氏が、日本というものについての複雑|極《きわま》る質問に、彼の標準による作家らしさ、手際よさで答えなければならない端目《はめ》におかれたのである。焦慮察すべきものがある。作家横光は、現実的に日本を語る力は、日本にいたときでさえ持たぬ作家であったのであるから、ともかく何かヨーロッパ的でないものを抽き出して、これが日本であると云うために、ひどい無理をしている。「一口で日本を巧妙に説明しなければならぬ危い橋を渡る」ために、開口一番「日本には地震が何より国家の外敵だ」と云い、それが「他のどの国にもない自然を何より重要視する秩序を心理の間に成長させた」それ故「ヨーロッパの左翼の知性」は日本に入って「日本独特であるところの秩序という自然に対する闘争の形となって現れ」従って「絶対に負けるのは左翼である。」「日本文化の一切の根底は無の単純化から咲き出したもので、地球上の凡ての文化が完成されればこのようになるものだという模型を作っているような社会形態が日本だと思う。」「つまり知性の到達出来る一種の限界まで行っている義理人情の完璧さのためにも早や知性は日本には他国のようには必要がないのだと思う」という迄に常軌を逸したのであった。
 日本の外へ出て見ると、内にいた間には見えなかった日本が見えるのは当然である。漱石なども、ロンドンに行って後、非常に鮮明に、日本の文化的伝統とヨーロッパの文化的伝統との相異を、その社会的歴史の背景の前に認めた芸術家の一人であったが、それは、漱石にあっては、当時の日本の文学的水準にとって瞠目的な価値をもっていたイギリスの十八世紀文学の研究と文学評論とを生ましめた。同時に、日本の義理人情というものをも客観的に把握し解剖する力を獲得した。漱石自身のうちに時代的な意味で影響をのこしている義理人情をも、その観察の鏡にうつして眺めるようになった。小説の中で、彼は、旧来の義理人情というものが自然であるべき人間相互の関係を歪め、そこから生じた不調和や偽善に対して、人間的な、自覚をもつ我《われ》、及び自然的人間情緒が捲き起さざるを得ない軋轢《あつれき》と相剋とを描き得た。「それから」「門」「彼岸過迄」等、いずれもこの点で当時の日本人の発展的な内部生活を反映していたのであった。彼が、目白の学習院へ招《よ》ばれ、フロックコオトを着て述べたところの講演は、若い公達等に、人間性の自覚の必要を力説したものであった。
 漱石は、飾らない言葉で一面では日露戦争後の日本人の盲目的なヨーロッパ崇拝を罵倒し、他の一面ではヨーロッパの文物にある俗物根性を批判した。より高い人間的水準の上に立つものとしての知識人の矜恃を求めている。漱石の自覚にあった、このより高い人間的水準というものは、今日の歴史の眼によって見れば独り合点のところもあり、最後の「明暗」の時代には、作家としての彼を深刻な内的分裂の危機に近づかしめつつあった。けれども、彼が愛する日本を暗くしている蒙昧に対して明知を、人間性の無視と没却とに対して、その自立と天然の開花を追求した方向においては、疑いもなく明治、大正年代の進歩人の意欲を正当に代表していたのである。
「厨房日記」における梶の見解、その見解に全然一致している作家横光の見解は、果して今日の日本の何人の生活感情を代弁し得ているであろうか。
 義理人情が、日本の文学的伝統の中で芸術的表現を与えられたのは、義理といい人情という、この世の外的内的なしがらみを破り、或はまさに破らざるを得ないところまで迸った天然自然の人間性が、その柵にせかれて身もだえし、遂にそのしがらみを破ったと同時に我が身をも滅した憐れさを捕えたものであった。さもなければ、義理にせかれ、人情にからまれ、親子、夫婦、主
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