しぴったりしたものである。フランス風というと、その一言が多くの内容を一括して或る感じを与え得る。ところが日本というところは、過去においては余り東洋の幻想の中につつみこまれていた。蝶々夫人、お菊さん、小泉八雲の描くところの日本。それらはいずれも昔の日本の或る一面、或はそれが嘗ては日本であったところのものを、語っているかもしれないが、何しろ一九二九年以後の日本というものは、国際関係の現実の中で極めて現実味の強烈な或る意味で露骨な進退をしているのであるから、小泉八雲の気分的日本の描写では、外国人として日本を掴み得たと感じられないのは自然である。まして、昨今の日本文化輸出熱は、その本質において、残念ながら多くは外国の人々の日本に関する不十分な先入感、お蝶さん的趣味に追随した程度のものであるから、日本文化と称するものの輸出熱が嵩じれば嵩じる程、一層現実日本の挙止が日常に与えつつある印象と日本的と称されるものとの間にギャップが目立って来ざるを得ない矛盾におかれている。
トリスタン・ツァラアがモンマルトルの客間で日本の作家ヨコミツに「日本はどういう国ですか。僕は他の国のことなら何処の国でも多少は想像がついているのだけれども、日本だけは少しも分らない」という質問を出したことの中には、日本が皆目分らないのではなく、日本について彼に分っている或ることと或ることとの間の、人間的・社会的必然の繋《つなが》りが分らない。つまり、日本のそのこととこのこととが、どういう関係で日本人の心の中にそのような形で在り得るのか、そこがどうも見当つかないという内容をもって来るのである。聊か政治的批評もする[#「聊か政治的批評もする」に傍点]ヨーロッパの文士は、日本人絹業の興隆、その背後の力とリオンの絹業者の破産との相互関係も知っているであろう。又、スイスの時計生産を圧迫している日本製時計、自転車の大量輸出と日本の世界最低の労働賃銀のことをも知っているであろう。中国と日本とが、東洋においてどのような関係にからまれているかをも知っていよう。そういう、日本の面と、能や端午の節句や桜花爛漫を撮影している国際文化振興会などの、日本紹介映画との間に、どういう血が通っているか。否、普通日本人と呼ばれている多数のものの平凡で苦労の多い実生活の裡にこの二面はどんな形で、どんな有機性で渾然とし得ているのか。一九三六年における
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