?」
 そして、がっかりしたような身振りをして呟きました。「ああ、ああ、又あの理由!」それは、彼女が「女だから」と云うことです。
 もうロザリーは、この為に銀行の仕事を放擲しようとなどは思わない女性の一人になっていました。欧州戦乱が折から勃発した当時の英国の社会には彼女が教育上責任を転嫁し得る多くの欠陥のあったことも事実です。
 夏中休暇に、友達の処に滞留している筈であったハフは、ターンハムプトンと云う村で放浪飲酒、暴行の廉《かど》を以て拘引されました。当時、間牒審問に関係していた父親のハリは、偶然間牒事件でこの村に出張し、思いがけない息子と法廷で顔を合わせたのでした。
 父の名望の為にことなくすみ、ハフは、当時の青年の流行通り、軍隊に加りました。早速フランスに出発すべきであったのに、ロンドンの盛り場で妙な女と遊び歩き、帰隊を後らせた為、軍法会議に附せられました。今度も父の有力な地位と戦時中のおかげで、直ぐ戦線に加ると云う条件で許されました。が、平和が調印され、学生と云うので早く兵籍から放たれた二十歳のハフは、ロンドンに帰ると学業などはそっちのけで素姓もわからない喫茶店の給仕女と結婚し、悪い仲間に誘われて、曖昧至極な会社を作り、家へなどはよりつきもしません。
 遂にそのことからハフはフランスまで高飛びしたのを捕えられ、六ヵ月苦役を宣告されることになりました。
 長男であるハフにこれ等のことが起っている間、娘のドラは、又悦ばしくない状態にありました。彼女は、母のロザリーに何の親らしい愛も感じていません。十八になったばかりの彼女は、贅沢な学校の寄宿生活を終り、家には眠りに来ると云うばかりの有様です。数限りのない友達、絶間ない招待と訪問、その交際範囲は、彼女を呼び出すばかりで一向、両親の家へは訪ねて来ないと云う種類のものです。
 美しい縹緻よしのドラは、憚りなく「ああ本当にうちは退屈だわ。早く誰それさんのところへ行きたい」と云います。男の友人と、気位のない交際をしているのを知って、ロザリーが注意を加えても何もなりません。だらしのないのをやめさせようとしても、ドラの云うことはこうです。
「そんなことは子供のうちに仕込まれるべきことですわ。おかあさんはきっちりしていらっしゃるけれど、私にはただの一遍だって始末よくするようになんて教えて下さらなかったことよ」
 そして何かむずかしくなると、
「私おかあさんに産んで下さいとお願いして? 自分勝手に私が産れるようになすったのじゃあないの? そうじゃなくって? 私自分で定めたんじゃあありゃしないわ、これ丈は決して忘れないことよ。決して!」
 一番末のベンジャミンはこの二人とは違いました。静かな、学問に凝る、今は唯一の父様っ子です。母のロザリーに対しては、勿論実におだやかで親切ですが、彼女が求める率直な感情の吐露は欠けているように思われます。
 ハフの不名誉な事件後ドラは愈々家におらなくなりました。それどころか、或る晩、ロザリーは予想もしなかった、娘の臨終にめぐり会うことになりました。
 少し以前から、ロザリーに様子が変だと心づかれていたドラは、一人の女友達の部屋で何か医者の明言しなかった理由の為に危篤に陥り、一晩の苦しみで到頭死んでしまいました。悲しさでやっと我を支えているロザリーが、最後にドラの名を呼んだ時、瀕死の娘は、もう何とも云えない嫌気に満ちた溜息とともに、
「あ、おかあさん!」
とつぶやきました。
 突然死んだドラの唯一人の仲よしであったベンジャミンは、翌日、夕刊に、ドラを視た検屍官の逮捕状で一人の男が検挙されたのを読むと一寸出て来ると云ったぎり、もう再び生きた姿を両親に見せませんでした。彼は、警察署に行くと、捕えられて来ていたその男を死ぬ程|擲《たた》きのめし、自分は程近い地下鉄道に轢かれて命を落してしまったのです。
 ああ神様。ロザリーは良人に云いました。
「子供達が悪かったのではありません。私が天の命に背いたのでした」
 彼女は、ドラの没くなった翌朝、フィールド銀行に辞職届をかきました。
 二人の子を失い、一人の子も恥辱の裡に持つハリとロザリーとは、魂の底から互の心を感じ合いながら擁き合いました。
 これほどの苦痛も、二人で耐えてこそ耐え得ました。
 今は、総てがよくなりました。ハフは出獄して、カナダにい、心を入れ更えて家郷への音信を怠りません。彼が、虐待し、早死した妻との間に生れた娘のロザリーは、名づけの祖母を母と呼び、ロンドンで一緒に暮しております。
 小さいロザリーは、三度の御飯も皆と一緒に食べるし、褓母や家庭教師と云うものも持っていません。
 大喜びで朝飯をしまうと、ピョンピョン片足で飛び廻りながら、可愛い声を張りあげて呼び立てます「お稽古! お稽古!」
 彼女の子供らし
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