、さっぱりと掃ききよめて淋しいほど何もない母さんの家の座敷まで歩くのであるが、その家庭の姿の語りかたにそのカメラそのもののはにかみ[#「はにかみ」に傍点]のようなものが感じられて、様々の感想にうたれた。たとえば洋服屋さんの仕事場にカメラが入って行く。そこには子供の父さんがいる。母さんも働いている。おとなしい日本のカメラは律儀にその人々にお辞儀をして、早口にものを云って、さっさときりあげて出て来る。ああここにはこういう生活がある、とその生活の姿に芸術の心をつかまれてグルリ、グルリと執拗にカメラの眼玉を転廻させ、その対象となる人々も、さて、これが我々の生活だ、どうぞ、と腰を据えている重厚さは、まだまだああいう場面に滲み出して来ていない。
 けれども、今日として、ともかくあすこまでカメラが進み出したことには見のがせない価値があるのだと思う。少くともあの保育所の人たち、子供たちその親たちは、あの経験を通じてカメラを余程自分たちの生活に近いものとして感じることに慣らされたにちがいない。
 記録映画の情熱と美は、畢竟、制作者がそこにある対象そのものの客観的な表現力として自身を自覚する強さと、対象と
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