あるこうとする馬の口をひかえひかえて耳をすましてきいたけれ共琴ひく音はしなかった。或は此の月の美くしさにさそわれて御堂などへ御参りになっては居ないかと釈迦堂を始めとして御堂御堂をまわってたずねたけれ共小督の殿に似た人さえもなかったので内裏を出る時にはいかにもたのもしそうに申して出たのにたずねる人にはまだ会わず空手でかえったならさぞ御機嫌が悪い事だろう。是の所からどこかへ落ちてしまいたいけれどもどこへ行っても日本国でない身をかくすべき宿もないので「どうもしようがない、法輪はもう近くだから」と法輪の方へ行くと亀山の近くに松林の一つあるところにかすかに琴の音が聞えた。嶺の嵐か、それとも松風か、もしやたずねる人の琴の音か覚束なくは思うけれ共駒を早めて鞭をうつほどもなく片折戸にしたる門に琴を引きすまして居る様子はまがうかたなく小督殿の爪音である。楽は何かときくと男思うて恋うとよむ想夫恋をひいて居られる。楽は沢山あるのに只今此の楽をおひきになるあわれさ、仲国「お可哀そうに此の御方もまだ君の御事を思召して忘れておしまいにならなかったと見える」と嬉しくて腰笛を腰からぬきとり馬から飛んで下りて門をほとほととたたいたので琴をひくのをハタととめてしまわれる。「是は内裏から仲国と申す者が御使に参りました。おあけ下さいませおあけ下さいませ」とたたいてもたたいてもとがめる音もしなかった。けれどもややあってから内から人の来る景合[#「景合」に「(ママ)」の注記]したのでうれしくまって居ると鎖をはずし門をあけ、いたいたしいような美くしい小女房が顔許り出して「是は内裏なんかより御使をたまわる様な所でもございませんからまさしく間違えでございましょう」と云ったので仲国は返事をして門をたてられたり鎖をかけられたりしては悪いからと思ったのだろうか、やがてそう云う小女房を押しあけて内に入って小督の殿のいらっしゃる妻戸の間の縁にいざりよって云ったのには「どうしてこんな御住いにいらっしゃいましたか。君は貴女の御事故に思い沈ませられて御供もめし上らず御寝もゆっくり遊ばされず、只あてのない情ない事だと明暮思って居らっしゃいますが、御書を給わってまいりましたものを」とおそばに居た女房に御取次をたのんで君の御書奉るので開いて御覧になるとまさしく君の御書である。やがて御返事を御書になって結びながら女房の装束を一重ねそえてみすの外へおし出されたので仲国はその女房の装束を肩に打ちかけながら「外の人の御使でございましたなら御書の御返事の上は子細ございますまいけれ共君の内裏で御琴をおひきになった時常は笛の役に召されてまいりましたその御奉公をいつのまに御忘れになったのでございましょう。直々の御返事を承わらなくては口惜うございます」と申したので小督の殿も「ほんとうにそうでもあろう」とお思になったと見えて身ずから御返事をなさる。「貴女もかねて知って居らっしゃる様に太政の入道殿のあんまりおそろしい事許りおっしゃるとききましたのがあさましくて或る暮方に内裏をしのびまぎれ出て来たので、このような住居の有様なので琴なんぞひく事もなかったのにあすあたりから大原のあたり思い立って行く事のあるので、あるじの女房が今夜だけの名残をおしみながら居る内に早夜がふけましたから今は立ちぎく人もありますまいなどと様々にこしらえて云うのでしみじみ昔の事もなつかしくて手なれた琴を引いた所をぞうさもなくすぐきき出されてしまった」と云って御涙にむせび給えば仲国も思わず袖をぬらしてしまった。仲国の云うには「明日から大原の辺に思召立たせられると云う御事はきっと御様などお変えになるのでございましょう。そんな事を遊ばしてはいけません。主の女房御出し申してはいけません」と云ってつれて居ためぶ吉祥などと云う男をとめておいて我身一人内裏へかえって来た時は夜ははやほのぼのと明てしまった。料の御馬をつながせながら、女房の装束をはね馬の障子になげかけ「今はもう御夢も深ういらせられるだろうからだれにたのんで申し入れよう」などと思いながら南殿の方へ行くと十六夜の月はもう南の御庭をわたって西の中間へさし入って居るけれ共君はよるの御殿にも御入りにならないで仲国を御待ちがおに夕べの御座いらっしゃった。南にかけり北に向う、寒雲を秋のかりにつけがたし東にいで西にながる、只せんぼうを暁の月によすと、高らかに御詠じになって居らっしゃる所に仲国が大急ぎで参り、小督の殿の御返事を奉ると主上はななめならず御よろこびになって「相談するものもないからお前迎に行って」とおっしゃったので、仲国は平家のおもわくもはばかったけれ共是も勅定だからと云うので牛車を清らげにさして嵯峨に参り此の事を小督の殿に申したけれどもしきりに参らないとおっしゃったけれ共様々にすかして迎えとってかすかなる所
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