で、少将は大変によろこんで此の上なく可愛らしいものに思って愛して居らっしゃったけれ共、程なく又内裏から召されて参内してしまったので少将は残りおしくて、せめて参内でもして居たらば余所ながら会う事も出来るがそれをそらだのみにふだん何かにかこつけて参内して小督の殿の局の前をあっちこっちと通り又はみすの外に佇みなんかして歩いて居られたけれどもついでの情もかけぬ気か召使の物さえも出て来ないので少将は情なく思って或時一首の和歌を書いてみすの内へ投げ入れた、それは、
[#天から3字下げ]思ひかね心は空にみちのくの ちかのしほがまちかきかひなし
小督殿は文を見てどうか返事をしたいとは思ったけれ共心を落つけて考えて「私はこのように君に召し置かれて参って居る上はどんなに少将が云っても言葉をかわしたり返事をしたりするものではない」と心にきめて、その文を上童に持たせてみすの外へ出させたので少将はなさけない、うらめしい人とは思って歩く気にもならないで居られたけれ共|流石《さすが》人目も空恐しいので出された文をふところに入れて歩き出されたけれ共どうかんがえてもそれではあんまりなと又立ちかえって
[#天から3字下げ]玉章《たまづさ》を今は手にだにとらじとや さこそ心におもひすつとも
今となってもう此の世では会う事さえ叶わないならもう一っそなまじ生きて居て見向いてもくれないような情ない人を恋しがって悶て居るより只もうこのまんま死んでしまいたいと許り思って居る。目の前で互に居て会って居る様で心ではあって居ないなさけない恋もあり又、お互にあわないではなれて遠く居ても互にこんなに思の深いのにと云って恨んで嬉しい恋もある。始から会わないでお互に思って居る恋よりも目ではあって居ながら心であわない恋の恨許はどうしようもない情ないものであると思いになった。此の冷泉の少将も入道相国の聟である。
「此の小督が世の中に居る間は世の中がよくないであろうから此の小督をつかまえて何とかしなくてはならない」と相国の云ったと云う事を小督の殿は人の話にきいて「私の身はどうかしようと思えばどうにでもなるけれ共何より君の御事が心配だからどうかして」と思いわずらったすえ「どうしても逃れるよりしかたがない」と思いきめて、或る日の暮に出入する童等にまぎれて内裏を忍び出て行方知らずに失せてしまわれた。君は失せた小督の事に思い沈ませられて供御なんかも召さずゆっくりと御寝にもならないと云う事を入道相国がきいて「君は小督の事に思い沈んでいらっしゃるのだろう。それなら」と御なぐさめ申す女房達を一人も参らせないで参内する臣下達らもとやこうとそねまれたので誰も入道の勢を恐れて参内する人もないので禁中の有様今までとは打って変ってその静かで淋しい事はいたいたしいほどである。君は小督の事に思い沈ませられて昼は夜の御殿に許り居らっしゃって夜は南殿にお出ましになって月の光に御心をすませていらっしゃる。丁度頃は八月の十日余の事なので一寸もくまない空だけれども御涙に曇って月の光はおぼろおぼろである。主上は人や候人や候とおっしゃったけれ共御返事をする者もなかった時にややたってから弾正の大弼《だいひつ》仲国、その夜丁度御前近う宿直して居たので「仲国」と御答え申して御前に参ると「仲国近う参れ、相談したい事がある」と仰あるので仲国御前近う参ると「あんまり突然な事であるけれどももしか小督の行方を知って居ないか」と仰せになったので「どうしてそうぞうさなく知る事が出来るでございましょうか」と申せば「ほんとかまちがいかは知らぬけれども嵯峨の国の折戸をした家に居ると云う物もあるが、主人の名を知らなくとも尋ねて来て呉れまいか」との仰、仲国は「主人の名も知らなくてはどうしてぞうさなく尋ぬる事が出来るでございましょう」主上は「ほんとうに」と龍顔に御涙が流れて居る。仲国は此の仰せを承るかたじけなさにつくづくと考えると「ほんとうにあの方の内裏で琴をお引きになった時常に笛の役に召されて参って居たものをたとえどこへご座いらっしゃるにもせよ此の月の隈ない美くしさに君の御事を思い出されて琴をお引にならぬ事はよもないだろう。嵯峨にある家はそう多くはないからその戸毎をまわって尋ね奉ったならば其の方の琴の音ならばどこに居ても聞き知る事が出来るものを」と思ったので「さようならばたずねて参りましょうか。たといたずね合っても御書を頂戴いたしませんではあてのない事だとおっしゃるかも知れません」と申したので主上は御書を御書き遊ばして給い「料の馬に乗って行け」と仰せになったので仲国は御馬を給わって明月に鞭をあげてあてもなくあこがれて行く。おじかなく此の山里と詠じた嵯峨野の秋の暮の景色にさぞや哀を思ったろう。片折戸にした所を見つけては若し此の処に居らっしゃりはしないかとあるこう
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