にしのばせまいらせて主上夜な夜なお召になって居る内に姫君が一人お出来になった。此の姫君と申すのは坊門《ボーモン》の女院の御事である。
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  *桜町中納言は入道信西の子なり。此卿いたく桜を愛し神に祈りしかば桜花久しく散らざりしより桜町の名ありしなり。
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     小宰相の身投

 今度摂津の国の一の谷で討死した人々には越前の三位通盛薩摩の守忠教但馬守経政若狭守経俊淡路守清房尾張守|経《キヨ》貞備中守師盛武蔵守知章蔵人大夫成盛大夫敦盛十人と云う事である。十の首が都におくられると一所に越中守の前司盛俊の頭も同じに京に送られた。中にも本三位の中将重衡の卿は一人だけ生捕にされてしまった。二位殿は此の由を聞いて弓矢取る武士の軍場に死ぬのこそあたりまいな事であるのに可哀そうに前の三位の中将が一人生捕にされてどんなにかいろいろな事を思って歎いて居るだろうと云っておなきになった。北の方大納言の佐殿は様をかえて尼になろうとなすったのを大臣殿も二位殿も「貴女をどうして尼さんになんかして世の中をすてさせる事が出来ましょう」と様々に制しておとめになったので様を変る事も出来ず只ふし沈んで泣いて許り居らっしゃった。其の外一の谷で討死した人々の北の方はたいがいの方はみな様をかえられてしまった。中にはあわれなのは越前の三位通盛の侍にくんだ瀧口時貞と云うものが軍場かえって北の方の御前に参って申したのには「上様は今朝湊川のすそで敵七騎の中に取こめられてとうとう御討れになってしまいました。殊に手を下して御首を討ちまいらせたのは近江の国の住人、木村の源三成綱と申しました。私もすぐ御供申し上げにどんなにもなる身でございますが、かねがねの仰せには『私がどのようになったとも後世の御供をしようなどとは思っていけない。必ず心をきめて北の御方の御行方を御見とどけ申せ』とおっしゃって居らっしゃったので甲斐ない命をたすかってここまでまいりました」と申したので北の方は何とも返事をなさらないでかつぎを引きかついでお泣になる。人の話に、三位の君は御討になったとききながら「此の事のもしまちがいではないだろうかしら、又生きておかえりになる事もあるかもしれない」と只一寸旅にでも出た人をまつように此の三四日の間は頭をのばして待って居らっしゃったのもあわれな事である。けれ共今になっては只むだに日数もすぎて「もしやもしや」と思って居たたのみの綱もつきたのでよりどころない心細さを感じられた。二月の十三日一の谷から八島へむかって海を渡られる暁つき近くに北の方、乳人の女房に向っておっしゃるには「ほんとうに思えばはかない哀なものだ、三位の君のあした、打ち出ようとする夜に軍場に私をよび招えておっしゃるには『弓矢取るものの軍場に出るのは常の事だけれ共今度はきっと死ぬだろうと思うと世にくらべるもののないほど心細い。さて考えれば此の通盛のはかない情に都の内をさそわれ出て歩みなれぬ旅の空に出てからもう二年にもなるのに一度もいやなかおをなさらなかったのはほんとうに此の通盛がいつの世までも忘れない嬉しい事だと云って、そして此のように体のつねでないのもよろこんで通盛が三十になるまでは子と云うものがなかったのにさては浮世のわすれかたみにと云うのであろう。そしてこのようにいつまででもきりのない波の上、船の中の住居だから身々となる時のきまりわるさ、心苦しさをどうしたらよいだろう』なんかと云って居られた言葉も今ははかないかねごととなってしまった。まだこの世に居らっしゃった六日の前のあかつきをもう此の世のかぎりと知れたならばきっと後の世を契ったものをあいそめたその夜の契さえ今は中々うらめしくて彼の物語にある、光源氏の大将の朧月夜の内侍のかみ、弘徽殿のほそどのも私の身の上にひきくらべて一しお哀深う思う。まどろめば夢に見ん、さむれば面影に立つと云うたのもほんとうの事に思われる。それだが又、身々となってから幼児を育てて置いて亡き人のかたみと思って見たならば悲しみはまさるともなぐさめられる事はきっとあるまい。なまじ生きて居たらば思わぬうきめもあろう。志草のかげで見るも心うい事であろう。此のようなついでに火の中水の底へでも入ってしまいたいと思って居る、書いて置いた手紙を都の方へお送りなって下さい。ついでに後世の事を云って置きましょう。装束をどんな聖にでも賜って我の御世をともらって下さいね。何よりもこのなごりがいつのよまでも忘れないほど悲しい」と云っていろいろ行末、こし方の事をかきくどいておっしゃると乳母の女房は「マアどうしたのでございましょう。日頃は人が来て物を申しあげるのにさえはっきり御返事もなさらないような御方が今夜許り此の様にいろいろおかきくどいておっしゃるのはほんとうに火の中水の底にでもお
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