ほか感じられないことさえある。

 ○二十五日夜、仙台よりの汽車中にて、
 ○彼女は二十三四になったかならないである。どっちかと云えば、いい服装をして居るけれども、実際の生活程度はそんなに高くないらしい点がその態度の中にチョイチョイとあらわれる。東京に長く居た地方の女である。新婚後東京の夫の任地へ行くらしい。
 沢山の見送りが来て居る。その前で、彼女はさも輝やかしそうに見える。落着いて、さも安んじた心持で居るように微笑――得意な幾分女性の傲慢もそなえた――をうかべながら、かるく頭を下げながら、挨拶をして居る。そして、丈の高い体は美くしく見えた。御機嫌よう御機嫌ようと云う声に送られて、汽車が構内を出てしまうと、急に彼女の目には、或るたるみがあらわれた。次で、アアよかった。何もかもすんだ。これから、都会で始められようとする生活に対する憧憬の心やらが、彼女の白粉の上に油ののった顔に一どきに渦巻いた。
 三つ折にしたコートの中に手を入れて彼女は、しゃんと体を保って居ようとしたが、四肢の隅々から、ぐんぐんとさしのぼって来る心のゆるみにともなった訳の分らないたよりなさが、いつの間にか、グッタリと、頭を下げさせてしまった。列車がこんで次の部屋の一番隅に頭を見せてよく眠って居る夫の方をややしばらく見て居た彼女は、いきなり口に云われもしない憎らしさ――それは一面に強い愛情をもえたてさせた――を胸一杯にみなぎらせた。白粉のはげないように、小さい手巾をあてながら、自分でどうしたのか分らない涙をこぼした。
 彼女は、やたらに今斯うやって自分を遠い東京へつれて行く夫に対して、可愛くてたまらない心と、にくらしい、両手で、ガリガリとかっさいてやりたいような憎嫌を感じて居た。そして頭のとおいところで、ランチョンの中にあるアメチョコの甘さを考えて居た。

 二十六日桑野にて、
 天気は晴れて、のびかかった麦が、美くしい列になって見える、けれども北風が激しいので、一吹松林をそよがせながら、風が吹いて来ると、向うの山に積った粉雪が運ばれて来て、キラキラと光りながら、彼女の頭に降りかかって来る。

 ○ドストイェフスキーの罪と罰をよんだあとで、漱石氏の明暗をよむ。全くおどろく。先に浜岡氏と話した、複雑な色調の調和と、単純な調和と云うことをこの二つの作について感じた。両方ながら完全なものだと云える。けれどもその完全さがまるで異う。
 ドストイェフスキーの調和、完全な美は、幾色もの完全な調和である。漱石氏のは、白と金の調和だ。二者の間には二つの国民性の差が著しくあらわれて居る。

     飯坂に関して

 ○あの新道は、明治三十七年の戦争の始まるとき[#「明治三十七年の戦争の始まるとき」に「三月頃から四月ごろまで」の注記]に着手した。その年は饑饉だったので、貧民救済事業として行われたので、県庁の保助があった。女から子供まで。
 人員 二三百人   ダイナマイトのきかない岩は何?
 日数 二月位。

 ○崖中から水がたれて居る。
 ○岩の間に菫の小さい葉がしげり出して居る。
 ○桑の尺とり虫が出始め、道ばたに青草がしげり出し、くもが這いまわる。

 ○手品使の広告が通る。広い桜の生わった野道を、多勢の子供にぞろぞろとあとをつかれながら、赤いトルコ帽に、あさぎの服を着た楽隊を先頭にして、足に高い棒材でつぎ足しをし、顔を白粉や何で可笑しくそめた男が、ジョーカーのような帽子をかぶって、両手をはげしく振り、腰を曲げて調子をとりとりねって行く。子供達はきそって、躰が圧しつぶされそうなのぼりのさおをかつがせてもらって行く。
 楽隊はときどき気まぐれなラッパをブーッブーッと吹きならすと、白い綿雲の静かにただよって居る空の奥の方で、同じ調子のかすかな音が反響する。

 ◎岡村翁は、父親の年も一緒に数えて、百十八歳なのだと云って居るものがあるそうである。四十ばかりの妾が居るのだそうで、東京や京都に行って居るのだと云う。

 ○今日彼に会って見た。年は全く百二十一歳らしい。耳も遠くなって、まめのいったのもたべられなくなってしまったそうだ。

 ○黒の綿リンズの羽織に、青色のつむぎの着物を着て居る。
 すっかりはげた頭の中途に五分位のはばでまっ白な髪の毛がはえて居る。写真で見たより倍も倍も活々した美くしい顔をして居る。

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〔欄外に〕
 彼はどう云うときに、自分は生きすぎたと感じたろうか。
 一、彼が(すべて私の推量によれば)――百十二三歳のとき。or 十五六歳のとき、
[#ここで字下げ終わり]

 ○「おじいさん何か昔のお話をきかせて下さいとさ、
「何? 昔のおはなしかね、……ハイ昔のおはなし、桃太郎
 彼は長火鉢の上にのって居たくりものの桃の菓子器か何かをさした。

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