「土」と当時の写実文学
宮本百合子

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)略《ほぼ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三八年一月〕
−−

 ありふれた従来の日本文学史をみると、明治三十年代に写生文学というものをはじめて提唱した文学者として正岡子規、高浜虚子や『ホトトギス』派のことは出て来るが、長塚節のことはとりたてて触れられていない。
 明治十二年に茨城県の国生という村の相当の家に生れた長塚節は水戸中学を卒業しないうちに病弱で退学し『新小説』などに和歌を投稿しはじめた。
 正岡子規が有名な「歌よみに与ふる書」という歌壇革新の歌論を日本新聞に発表したのは明治三十一年であった。当時十九歳ばかりであった長塚節はこの論文にいよいよ動かされた。そして、三十年には子規の門に入り、主として和歌、俳句、写生文を学び、子規が没し『アララギ』が出るようになってからは節は主として『アララギ』に和歌を発表しつづけていた様子である。斎藤茂吉氏が「節の本領は和歌にあるが、子規の唱えた写生文から入って遂に小説を作るに至った。世に、写生文派の
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング