小説、ホトトギス派の小説というのは即ちそれである」と云っているのはこの消息を語るものである。
長塚節には、長篇「土」の前にいくつかの短篇がある。子規が没した翌年ごろ、二十五歳になっていた節に写生文「月見の夕」というような作品があり追々この種の作品がふえ、はじめての短篇小説は「炭焼のむすめ」(二十八歳)であったらしい。「土」は恐らく慎重な節によって永い月日を費して書かれていたものであったろうが発表されたのは明治四十三年の六月で、漱石が朝日新聞に推薦した機会であった。翌年、もう節は喉頭結核の宣言をうけ、その後は転々として五年間の療養生活の間に主として短歌に熱中し『アララギ』に「鍼の如く」数百首を発表した。この時代節の歌境は非常に冴えて、きびしく鋭く読者の心に迫る短歌を生んだ。しかし、散文としては終に「土」が彼の芸術的生涯の最後の作品となったのであった。
「土」が書かれた時分の日本の文学的潮流は自然主義であった。日露戦争後、戦勝とともに日本の文化に滲透して来た自然主義の主張というものも、今日顧みればこの文芸思想の発生地であるフランスにおける理解、文学的成果と日本のそれとの間には微妙な変化が
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