処の前には、彼岸桜が美しく咲いていました。
 其処に立っていますと、妙に感傷的《センチメンタル》になって思いは過去へ過去へと馳せて行くのでした。暫し想いを凝らせると、あの髪を角髪《みずら》に結んだ若い美しい婦人が裳裾を引きながら、目の前を通るように覚えるのでした。

          (四)[#「(四)」は縦中横]

 こうして、何処を顧みても、私達の野心《アンビション》を刺戟する何物もない「奈良」の天地は、古代芸術の香りを慕って来る者をほんとに心ゆく迄、抱擁して呉れます。
 そして、その土地の人達も、曾て憤りという気持を起した事のない程平和な、亦保守的生活を続けている。恐らく彼等の生活は奈良朝時代から、一歩も進んでいないように見受けられるのです。
 彼等は、栄誉ある背景を顧みて、ほんとに安心しきっている。たとえ少数の商人が、巧智に長《た》けた眼を窃《ひそ》かに働かして旅人の財布を軽めるにもせよ。「奈良」の人々は決して劇しい生活の準備などはしないでしょう。
「奈良」は、鹿が路傍に遊ぶ所です。そして古代芸術の永久に保存される所、人が永久に平安に暮せる所でしょう。少くとも私は之を信じたい
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