「青眉抄」について
宮本百合子

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)犇《ひし》と
−−

 この秋(昭和十八年)文展と殆ど同時に関西美術展というのが開催された。
 病気からすっかり丈夫にならないので、明治大正美術展も見られなかったし、このときも行かれず、残念に思った。新聞に代表的な作品の写真がのったなかに、上村松園の作品があり、その新鮮さ、たっぷりさに目のなかが涼しくなるようないい印象をうけた。夏の日に張りものをしている妻の絵で、はり板の横に腰をおとしてしゃがんでいる女の体のたっぷりしたすこやかな肉置き、手に入った仕事に働いているときの女の闊達な表情、単純で美しい服装、いずれも非常に美しかった。やっぱり美人画らしく白い顔や腕でも、それは些も繊弱でなく貴族的でなく、丈夫なまめな快活な笑声、愛嬌ある心の照りが、こまやかな肌のきめに匂っているという風なこのもしさであった。はりきった厚さと暖さとがある美しさであった。
 六十何歳かに達した年で、このように精気のある絵をかく女性の粘りというものに、感服し、よろこびを感じたのであった。実物を見られなくて惜しいという気が切にした。

 護国寺の紅葉や銀杏の黄色い葉が飽和した秋の末の色を湛えるようになった。或日、交叉点よりの本屋によった。丁度、仕入れして来たばかりの主人が、しきりに、いろんな本を帳場に坐っている粋なおかみさんにしまわせている。
「こんなのもいい本だが、何しろこう少なくちゃ仕様がない」
 主人は、本やというよりもむしろ呉服屋の年功経た番頭というような云いかたで、新刊本の棚の前に、一冊の本を半分投げてよこした。十八年度最終の出版整備が公表されて程なくのことである。
 今日の本やの気分というものを犇《ひし》と感じつつ見ると「青眉抄」上村松園とある。
「おや、珍しい本だこと」
「さすがに装幀もようござんすね」
そう云ったきり一冊しか出さないのである。
 純綿ものでも出されたような工合で、その一冊を買った。

 日本画家の芸術家としての内部生活の限界とでもいうようなものにふれて、様々の読後感に打たれた。
 一かどの芸術家は、男女によらずだれしも或る強情さ、一途さ、意志のつよさ、人生への負けじ魂をもっている。それは人間的な素地として、其々の専門部門への特別な天稟とともに備えている。其々の時代の制約と闘
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング