うということも共通である。苦心するのも共通である。
「ロダンの言葉」という二巻の本がある。これが、ロダンの芸術を益々ふかく理解させるばかりか、後進のものに彫刻のみならず、芸術というものの本質をわからせるに役立ち、文学や音楽の仕事にたずさわるものをも魅する珠玉に輝いているのは何故だろう。ロダンはそこで、自分の苦心努力ぶりを語ってはいない。美について、その発見と表現とその技法について語っている。別の言葉で云えば、自己の偉大さの秘密を、すっかり打ち開いている。その真率さにおいて益々彼は偉大であり、到達しがたい価値を感じさせるのである。
ゴッホの手紙は、どうだろう。セザンヌが絵に関して云ったことはどうだったろう。
松園があれだけ彼女としての精進を重ねて今日「青眉抄」をまとめたのだが、この随談随筆の中に、修業時代からマイステルに至る間に感服して見た古典、同時代人の作品などに一言もふれていないのは、奇異な感じがした。
師匠についてのみ語っている。縮写をよくしたこと、一心に描いたこと、それだけが語られている。
作家が自分の一生の半ばを顧みたとき、当然何かの影響をうけた――それに反撥したということも一つの影響である以上――何人かの作家が国の内外にあったことを認めずにはいられまい。
日本画家の精神のくみたてというものは、こんなに洋画の人々とはちがったものなのだろうか。
夜中に徹夜して描くということが云われている。私たちも夜はかきにくいものだろうと思っていた。松園は案外そうでないものだ、と云っている。けれども、それから先は説明されていない。どんな範囲でかけるか、描けるために入用な準備はいろいろあろうが、それは鰻屋のたれ壺である。端倪すべからざる沈黙におかれている。
芸術家としての内部的発展をいうならば、画期的な作の描かれた思い出が語られている。
二十六歳に花ざかりを描いた(三十三年)画家が何故十九年の後、四十五歳で焔を(たった一枚の凄艷な絵)として(中年女の嫉妬の炎――一念がもえ上って炎のようにやけつく形相をかいた)大正七年(四十五歳)のであろうか。
その後は、境地がなごんで「天女」をかいたといううつりは何を動機としているのだろう。
「思いつめるということが、よい方面に向えば勢い熱情となり立派な仕事をなしとげるのですが、一つあやまてば、人をのろう怨霊の化身となる――
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