「女らしさ」とは
宮本百合子

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(例)[#地付き]〔一九四六年十一月〕
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 私たち婦人が「女らしい」とか「女らしくない」とかいう言葉で居心地わるい思いをしなくなるのはいつのことだろう。
 日本の社会も、袂で顔をかくして笑うのを女らしさといったり、大事な返事をしなければならないときに口もきけなくて畳をむしるのが娘らしいという考えかたからは、ぬけて来た。しかし、何かにつけて思い出したように「女らしさ」が登場して来る。そして、それはいつも、何かのかたちで婦人の生活が社会的に一歩前進する事情に面したときである。例えば、婦人に参政権が与えられたとき、あちこちに改めて「女らしさ」がとりあげられた。立候補した婦人たちは保守的な男女の一票をとり逃すまいとしてどんなに「女はどこまでも女らしく」と強調しただろう。はた目に気の毒なほど強調して「女こそ女の苦しみがわかるのだから」と演説した。そして、当選して、開院式の折、またその他の場合とかく「女らしく」衣服のことまで話題にされた。女らしさを標語にした婦人代議士たちにしても、それはさぞうるさく迷惑なことであったろう。女は「女らしく」婦人代議士クラブというのをこしらえた。女らしく、お茶を立てて飲んだりしたが、政党間の利害は女らしさにも現実に作用して、こわれてしまった。そのとき新聞の批評は、どうであったろうか。「やっぱり女は」という表現が加えられた。共産党以外の諸政党における婦人代議士たちの立場は、あくまで女は女らしく、添えものとして扱われている。
 こういう日本の古い、不親切な婦人への考えかた、感じかたは、一般女性の日常生活にもっと深刻に影響している。
 参政権を得たり、組合が出来てから、若い娘が女らしくなくなった、或は女らしくなくなりはしないか、ということはどこでもいわれていることである。相当の見識をもっている人でも、これらの問題に何となく女らしさの気分をからめて取り上げる傾向があると思う。
 自分の一票を誰に与えようと考えたとき、たしかに真面目な婦人は、演説をききに出かけずにはいられない。うちで、そういう話も出る。意見もいうようになる。それが、女らしくないというどんな根拠があるのだろう。熱中してほてらしている頬は、まがうかたない女の軟か
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