いるのだろうか。それとも、女のなかにある能動的なものそのものの肯定としてだけの範囲で見られているのであろうか。

 友代の情熱、ユーモア、人間らしい親しみは、いずれも人柄として演じられて成功をおさめているというところも、以上のこととの関連で、芸術上の問題として興味がある。演じいかされているために、脚本にあるそういう本質の課題がつきつめられぬまま、観ている心に舞台の友代は或る共感を与えてゆくのであるから。
 場面場面は十分観衆をひきつけているらしいのに、いよいよ久作も工場へ入る度胸が据って目出度しの幕切れの拍手は、案外にまばらであった。これは明るい幕切れであり、或る意味でのハピイ・エンドなのだが、今日の観衆の生活感情のどういうものがそのハピイ・エンドに満腔の喝采をおくり得なかったか、それは俳優よりも寧ろ作者へむかって観衆が今日の現実から与えた意味ぶかいおくりものであったろうと思う。
 現代、明るさの真実な姿を芸術に描き出すことは決してやさしいことではなく、事件の目出度い大団円がとりも直さぬ明るさとして納得されにくい例は、別な場合であるが徳永直氏の「はたらく人々」の後半のまとめかたにも見ら
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