「下じき」の問題
――こんにちの文学への疑い――
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)市民《ブルジョア》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)尾※[#「骨+(低−にんべん)」、第3水準1−94−21]骨
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いたるところで、現代文学の停滞が意識され、語られている。
この問題が「小説の運命」という風な題目によってとりあげられはじめたのは、きのう、きょうのことではなかった。二三年前からのことでもない。さかのぼれば、一九一七、八年という時代に問題の源が発している。第一次大戦の末期からその後にかけて市民《ブルジョア》の文学としての近代文学のうみてである中間層の社会生活は、激動をうけた。その市民としての生活感情が変化したにつれて、文学の精神も表現も、それまでの様相をかえた。
第二次大戦は、更に大規模な破壊と変貌とを地球の上にひきおこした。世界の文学には、第一次大戦ののちとは比較にならない根本的な変化がもたらされつつある。第一次大戦の後、世界の市民《ブルジョア》文学の変化は、最もはげしく中間層の生活が破壊されたドイツの社会的要因の上に展開された。同時に、世界文学は、はじめて労働者階級の文学(プロレタリア文学)の誕生を迎えた。ソヴェト同盟の革命的な文学は、世界文学が包括するヒューマニティーの内容に、はっきりと、現代の歴史における労働者階級の意義と新しい能力の実証を加えたのであった。
第二次大戦は、ナチス・ドイツとファシズム・イタリー、日本の敗北を結果した。あやまった指導力に自分たちの運命をまかせたこれらの民族は、ドイツ人民がその悲惨において示しているように、きょうの世界文学の上に、自分たちのおそろしい経験を、人類の最後の悪夢たるべき経験として物語る余力がないまでに挫折させられた。
ソヴェト同盟の文学とアメリカ文学、そしてフランスの文学が、こんにち、ヨーロッパの側で世界文学の運動を示す三つの星となったには、世界史の裏づけがある。アジアの文学は、パール・バックやエドガー・スノウやオーエン・ラティモアなどの優秀な西欧の人間性を通じて世界文学に座をつらねる段階をぬけて来ている。中国は中国の人々自身の物語をかたりはじめた。インドも、朝鮮も、インド・シナも。アジアは、現代史のなかで、はっきり一つ地球の東側に生存している人類の文学として自身をなりたたせる可能を示しはじめた。
日本は、アジアの憲兵であると云われて来た。過去の戦争の年々は、権力によってその場にひき出された個々の人たちの真の心根がどうであったにしても、世界史の上に演じた客観的な役割は、憲兵的である程度をこして、アジアの平和の毒害者であった。戦争中、日本の文学は、戦争協力の方向にたたないものは、存在を許されなかった。そして日本の人民は、敗戦という事実を知った。
空襲をうけた日本の土地土地の地質が変化した。やけたあとの土に庭木は育たなくなった。そのかわり、猛烈な雑草の繁殖力があらわれた。ひとの背たけの倍ほどもある鬼蓼が昔、森鴎外の住んでいた観潮楼のやけあとにも生えた。
一九四六年一月から、日本の現代文学は、平和に向って解放された。人間性の恢復、人間として生きる諸権利の覚醒の声と動きに充満して、文学のすべての真面目な試みとすべての安易な云いのがれの、どれもが、日本文学における近代の社会性と人間性の確立の名のもとに行われた。
だが、きょう、わたしたちすべてが感じているのは、日本の文学の、もの足りなさである。納得のゆく方向に立って生活の実体とともに歩みすすめられてはいるのだが、その足どりは、まだるっこい、という種類のもの足りなさではない。現在、感じている日本文学のもの足りなさは、それが未熟だからでも、稚拙だからでもなく、それどころか、どの作品も趣向はそれぞれにこらしてあって、手綺麗に色もとりどりであるけれども、そのあまりにも多くが、駅の売店につられている派手なセロファン人形だ、という、そのもの足りなさである。たくさんの字をよむが、そこに動きと色彩があるだけで、魂がない。その空虚さが堪えがたく、作家であり、同時に読者であるわたしたちに迫っている。わたしたちが、単に読者であるばかりでなく、同時に作家でもあるということは、現代文学のこのような空虚に対して、鋭い苦痛をよびさまされる。わたしたちが読者であるばかりでなく、作家でもあるということは、ただそのような現代文学を軽蔑してすむことではなく、そのような文学を発生させている日本の社会の状況そのものを改めて直視して、その追求の過程で、こんにちに実在しているより真実で強固な人間性とその文学の主張を生かしてゆかなければならないと考えるからである。
つい先日の新聞にのった文芸時評で、青野季吉が、文壇文学からの「脱出」が試みられている一つながりの作品として数篇の小説にふれていた。
現代文学の行きづまりが感じられてから、脱出は「雲の会」となり「ロマネスク」の愛好となって賑やかに示威されている。
正宗白鳥の「日本脱出」は、一部の批評家によると、日本のニヒリストが、現代ロマネスクのチャンピヨンとしてあらわれた驚異の一つであったようだ。
「脱出」という言葉を日本の文学の上に、ふたたびよむとき、わたしたちの心には、ある思いが湧く。一九三六年ごろ、イタリー映画に「脱出」という作品があった。ムッソリーニが、ヒトラーとの黙契によって北アフリカへ侵略を開始する前ごろの作品で、いまこまかなストーリイは思い出せないけれども、当時イタリーの人民生活を圧していた社会不安、生活の不安から、北アフリカへの軍事行動へ「脱出」するという、好戦の映画であった。イタリー大使館かどこかの好意による特別試写会で、それを見た。そして「脱出」という字は深く心に刻みこまれたのだった。
「日本脱出」は、考えてみれば、白鳥のなぐさみにつけられた題ばかりでなく、日本のきょうの文学に、むしろ、文学の若いジェネレーションに大きいかかわりをもっている。十数年にわたった過去の戦争の年々、人間性をさかむけにする破壊的な戦争強行の現実のなかで、一年一年死の予想を前にして成長しつつあった青年たちは、その中で絶望を支え、人間として生きる精神の拠りどころを何に求めただろう。
日本の治安維持法の非道さは、治安維持法そのものについて、それがあるということさえ公然と語れば、犯罪行為とした。東條内閣の言論、思想の圧迫は、言論の自由がなく、思想は抑圧されているという現実そのものを抹殺したほど、極端であった。そのような情勢のなかで、生きようとせずにいられない青春が、辛うじて周囲に見出してとりすがったのは、フランス文学であった。フランス文学と云っても、それは、ナチス軍がマジノ線を突破する以前の、ポール・ヴァレリーやジイドなどの文学だった。野間宏が、自分は十二年間ヴァレリーの言葉をもって語って来た、と回想しているのは、誇張ではないであろう。野間宏の人間と文学との過程が人々の関心をよびさましているのは、そのように、国内での脱出、国内亡命を生きて来た現代の一つの精神が、彼の選んだ政治の路線をどのような角度でとおって、日本土着の人民の運命に密着し、帰属してゆくか、という点である。野間宏にとっては、人々によって語られているあたりまえの日本語さえも、新しい生活の発見に属すであろう。「青年の環」「時計の目」「硝子」へのプロセスがそのことを十分暗示している。
フランスの社交《サロン》小説の大体は、こんにちのフランスには存在しえない、限界に立つものだった。アナトール・フランスの「赤い百合」でさえも、この作家の最良の収穫たらしめなかった。モーパッサンが、「脂肪の塊」と「女の一生」「水の上」の他の何で文学史の上に立っているだろう。自身のロマネスクなるものの源泉を、フランスの社交小説において、こんにち語ることのできる三島由紀夫も、おそらくは戦時下の早熟な少年期を、「抵抗《レジスタンス》」の必然のなかったころのフランス文学に、それが、どれほど歴史の頁からずれつつあるかを知らずに棲んだのだろう。
ソヴェト同盟の文学が、一九三三年ごろからはロシア語とともに「危険」「要監視」となって、椎名麟三が、ドストイェフスキーにばかり親しまなければならなかった、ということも、あながち、自身の気質によりかかったとばかりは云えまい。椎名麟三も、日本へ帰りはじめている。
ひとくちに、戦後の文学、戦後の作家とよばれている現代文学の素質に、このように日本独特な精神の国内亡命が、因子となって作用している事実は、見のがされてはならない点である。
第二次大戦、ファシズムの惨禍を、日本の戦時的日常の現実を、通じて生死しながら、精神では大戦前のレジスタンスを知らないフランス文学に国内亡命をしていた人々の矛盾は、おそらくその人々に自覚されているよりも激しく、こんにち日本の文学に国内亡命をしていた人々の矛盾は、おそらくその人々に自覚されているよりも激しく、こんにち日本の文学の空虚さに作用していると考えられる。
このことは、「俘虜記」から「武蔵野夫人」への大岡昇平についても考えられることではないだろうか。スタンダリアンであるこの作家の「私の処方箋」(群像十一月号)は、きょうのロマネスクをとなえる日本の作家が、ラディゲだのラファイエット夫人だの、その他の、下じきをもっていて、その上に処方した作品をつくり出していること、或は歴史性ぬきの下じきを使用することをあやしまないならわしをもっているという事実で、むしろ、こんにちの世界文学をおどろかせ、奇異の思いを抱かせることではないだろうか。
そして、活溌な批評家と見られている人たちが、作者がだまって机の下に入れている「下じき」を見抜いて、それはラディゲであるとか、或はフローベルであろうかとか、当てものが一つの文学の仕事であるならば、それは文学的クイーズであるにすぎないだろう。
日本のきょうの文学、しかも西欧的なものを意欲していると云われる人々の文学にあるこの奇怪な顛倒と時代錯誤への屈従、追随こそ、批評家を無力にし、骨抜きにしている。別の云いかたをすると、戦後の批評家の多くは、その人自身、国内亡命をしていた人々であり、作家と同時代人としての、同じ精神の習癖をもっている。いわば、日本のはだしの足の、指ではがれている生爪を見ることを顰蹙《ひんしゅく》するかたぎ[#「かたぎ」に傍点]をもっている。このことは、それらの人々の文学の言葉では、リアリズムへのぬきがたい疑いとして語られつつある。
これらの複雑な精神の状態から、批評の無力は、ひきおこされた。したがって、先ごろ、文学の外にいると考えられている人々の間から、文芸評論に類似する発言が迎えられた現象もおこした。また、同じフランス文学によっているきょうの同時代の人々の間でも、時代性ぬきのフランス派――それは、ヒューマニズムの世界史に立つ展開とその具体的な内容について、さしたる重要性を見ようとしない立場の人々と、第二次大戦を通じてフランス人民の生活と文学とが変化した事実をはっきり把握している人々の間には、いちじるしい精神と気風との隔絶がある。後者は、こんにち日本の銀座にジュリアン・ソレルという服飾店などがあることを、アルジェリア女の口からきくパリまがいのフランス語とひとしく、その人々のためにまたフランスの良心のために汗ばむ思いで見ているわけである。
民主主義文学の批評の能力が弱いということから、一九四八、九年に批評の無力が云われはじめた。民主主義文学運動は、批評の能力において欠けていたばかりでなく、新しい文学行動の創造力を日本の国土にめざましてゆく力においても欠けていた。
従来の市民《ブルジョア》文学との関係で、このことが観察された場合、そこには、互いに影響しあっている何か微妙ないきさつはないだろうか。
民主主義文学運動の側から考えると、
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