ォードの能率生産というシステムなしに、フォード工場の労働者の、全生涯を部分品とする有名なメカニズムはあり得ない。あらゆる種類の労働にしたがい、勤労に従事している現代の多数の人々――すなわち読者たちは、誰だって、職場が自分たちを、それぞれの場における従順な部分品としてだけ必要としている事実を、日々の現実から知りつくしている。そのように人間性が部分品視されるに堪えがたい思いがあるからこそ、読者は、「ほんとの文学」にひかれる。そこに求めているのは、意識しているいないにかかわらず、人間らしさであり、人間らしさは、おのずから全人間的な存在の欲求である。部分品としてある環境に据えつけられたものでなく、自分で生き、自分で行動し、自分で判断して生きてゆく人間男女をあこがれている。若い人々が翻訳小説にひかれている動機もここにある。
 かつては、世界で一番一人当りの貯金高の多かったイギリスの中流人の生活という安穏な日々の基盤の上に、ゴルフが流行し、同じ消閑慰安の目的にそうものとして探偵小説が発達したことには、必然があった。吉田首相がイギリスの探偵小説をよみ、日本の大衆小説をよむ所以であろう。だが、慰みと、文学への欲求とは、一つのものであるだろうか。
 もとより、めのこ[#「めのこ」に傍点]算用で、部分品の全部がくみ合わさった状態における人間を考えたり、それを描いたりすることは、現代の複雑な社会機構の中では不可能である。けれども、それぞれの部分品が、部分品であるだけに、その機能の総和においては全体として存在するあるものがなければならない事実をも語っているのではないだろうか。現代文学に、全き人間性の再建として、模索されている社会性の課題は、近代の社会生活の中にある人間を、北欧の伝説にあるような単純な原人に還らすことでもなければ、現代史の中の理性の確執を、日本の馬鹿囃の太鼓の音にまぎらすことでもない。社会と個人の対決という、流行の窒息的な固定観念について多弁であることでもなくて、さながら一個の部分品であるかのように扱われているわれわれの人間的存在に関する、社会の前後左右の繋《つなが》り、上下の繋りを、歴史の流れにおいて把握し、描き出してゆく能力の発見の課題なのである。
 世界文学は、総体として、この方向にうつりつつある。その過渡期であるこんにち、第二次大戦後の新しい不安と苦悩、勇気と怯懦とが
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