、混合して噴出している。おそらくは、「二十五時」などの中にも。そして、われわれ日本の読者の悲劇は、ヨーロッパ現代文学の中でも、歴史様相に対して最も猜疑心の深い動機にたつ作品が、このんで紹介され、高い翻訳料を支払うために熱心に広告されるということである。
現代文学の中には、まともに、野暮にくい下って、舶来博学の鬼面に脅かされない日本の批評の精神が立ち上らなければならない時だと思う。
日本の社会生活と思想の伝統に、ヨーロッパの近代市民の性格が欠けているということ。従って、近代のヨーロッパの知性をうけいれている文学精神は、日本の社会感覚、文学感覚との間に、忍耐をもって埋めてゆかなければならないくいちがいを生じている、というようなことについて、こんにちでは知っていないものもないし、自覚していないものもない。それを、日本の知識人の悲運という風に主情的に語るだけでは、それ自体、その人たちも排撃している日本の文学精神の主情性であり、理性の譲歩ではなかろうか。
わたしたちは、よくよく思いおこさなければならない。かつて日本人民の運命が東條政府によって破滅に向って狩り立てられはじめたとき、文学が文学でなくなってゆくとき、その第一のシグナルとしてかかげられたものは何であったかを。それは批評の精神の抹殺であった。十五年の昔、素朴であり、ある意味では観念的であったにしろ、健在であろうとしていた文学の客観的批評の精神を襲撃して、当時の軍人、役人、実業家がよろこんでよむ「大人の小説」、軍協力文学を主唱したのは林房雄であった。こんにち、彼の「大人の文学」の内容は占領下日本に時めく四十代の「大人」をもてなし、たのしませる好色ものや息子ものとなった。あのころも今も、「大人の文学」は、そのときどきの勢に属して戯作する文学であった。そして、人間は理性あるものであって、ある状況のもとでは清潔な怒りを発するものであるということを見ないふりして益々高声に放談する文学であった。
読者は、黙ってはいても、判断しているのだ。そのおそろしさが、批評の精神に閃いていい。わたしたちのきょうの生活で、文学に批評の精神が活溌でないということは、重大であり、警戒されなければならない。それはとりも直さず、日本の人々が現実におかれている社会生活への批判が薄弱であるということなのだから。現代文学が、とんでも・ハプンという言葉を
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