げ終わり]
 これら三人の、フランス文学者、同じ系統の作家の右のような座談が、フランス語に訳されるとしたら、この人たちは果して同じように現代をからかう口調で語っただろうか。二十代の人は笑わない。そう云われているところに、きょうの日本の深淵がある。一九五〇年の十月、日本全国で二十代の男女労働者の大量が、「政治的思想的立場を理由にして、つまり国の憲法と労働関係法規とに違反して首切られました」(中野重治「茅盾さんへ」、展望十月号)、二十代の全国の学生は、同じく「政治的思想的立場を理由にして」追放されようとしている教授を擁護して、日本の理性のためにたたかっていた。そして二十数名の文学者は、日本の思想と言論の自由のためにアッピールした。数十年間大学の仏文科教授であった辰野博士がその人たちの笑いをくすぐるためには曾我廼家五郎が必要だと云っている、その日本の二十代の生活と文学の現実は、このようなものである。きょうの馬鹿囃に唱和しない二十代であるからと云って、彼らの目、彼らの笑いをもたないと何人が云えるだろう。日本の文学精神が変らずにはすまない素地は歴史のこの辺のところに在るかもしれないのだ。
 こんにちの空虚であって、しかもジャーナリズムの上での存在意欲ばかりはげしい文学現象を、現代人の「楽しみというものは、だんだん贅沢になるから、小説だって、もっと贅沢になればいいんでしょう。それだけのことでしょう」(群像十一月号「創作合評会」中村光夫)と総括して、その上での批評が果して現代文学の貧困を救う何事かであり得るだろうか。「そうじゃない」と同席の本多秋五が反駁して発言している。「人間というものは[#「人間というものは」に傍点]、だんだん部分品になってゆくものだから[#「だんだん部分品になってゆくものだから」に傍点]、部分品が全部噛み合わさった状態における人間というようなことを考えるのは大へんな難事業ですから、部分品としての消閑慰安の具となれば、それだけで社会的使命を果すという考えかたが非常にあるんじゃないか。」(傍点筆者)人類というものが、自然現象として、だんだん部分品になってゆくもの[#「だんだん部分品になってゆくもの」に傍点]、なのでは決してない。資本と生産手段を独占する者が地球の東西にわたって世界数億の人民の生存を支配する現代の社会機構が、人間を非人間的な部分品と化しつつある。フ
前へ 次へ
全11ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング