一九四五年八月十五日からのち、日本の民主革命は、急速に推移するそれぞれの段階を、どのように辿ってゆくものであるかということについての見とおしの上に、曖昧なものをもったまま来ていた。このことは、民主主義文学運動に、意外にも大きいマイナスとして作用している。
 民主的な立場での、人民的なひろい統一戦線。日本の理性と良心の擁護をめざす私心のない、広汎な戦線の必要は、こんにちにおいてもまじめなすべての人々の欲求として理解されている。それにもかかわらず、たとえば、文学者懇談会は、継続されなかった。なぜあれは、もちつづけてゆけなかったのだろうか。
 いわゆる肉体小説、風俗小説の作者から、共産党員である作家・批評家までを包括して持たれる懇談会は、ただそれらの各種の人たちが、もちこして来ているめいめいの型のままで、一堂によりあつまったというだけでは、烏合であろう。そこから去ってしまえば、それきり元のもくあみになる部分の多いのは避けがたい。民主主義の方向が、民主主義文学者に明確に把握されていたならば、そして、新鮮な決意があるならば、ファシズムに抵抗を感じている文学者たちの会合として、一献《いっこん》は不用のものであった。このことについて、当時、病気で出席さえ出来なかったわたしが、ここでふれることは、仲間の友達たちに対してはすまないことである。けれども、いまは多くの人々に共通な一つの経験として語ることを許してほしい。一本つけた、という話をきいたとき、心がしぼられるようだった。ああ、何たる日本式! そのような日本式談合万端にこそ抵抗しているわれわれではないだろうか。世界のどこの反ファシズム文学者の会合に、そこに集ったひとたちの日常に不足しているとも考えられない一本二本の徳利がなければ座がもちにくいと考えられたためしがあったろう。
 しらふ[#「しらふ」に傍点]であればこそ、ファシズムに対する抵抗のプログラムも語るに価する。ファシズムそのものが、理性の泥酔であるのだから。
 わたしは、切実にそう感じた。しかし、その席につらなった或る種の人は「酒があるのでほっとした」と語ったそうだ。そしてその言葉で、わたしの感じかたは、酒をたしなまない女のかたくるしさ、いつも白い襟がすきというような趣味と見られるようだった。
 ところが、段々あとになって、かたくるしくさばけないのは、わたしばかりでなかったこ
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