「ヒロシマ」と「アダノの鐘」について
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九四九年十月〕

{}:親本の脱字を補った箇所
(例)軍人たちの言葉{に旧日本軍隊の言葉}をつかって
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 ジョン・ハーシーの「ヒロシマ」と「アダノの鐘」は、日本の読者にもひろくよまれた。そして、ハーシーの作品ににじんでいる人間性に感銘されたという読後感が一致した。「ヒロシマ」は全く記録としてかかれていて「ヒロシマ」をドキュメンタリーに扱うために、ハーシーは日本へ来て、しずかに勤勉にゆきとどいた科学的態度で材料を集めた。第二次世界大戦が人類の生活にひきおこした破壊と惨酷の姿が、「ヒロシマ」にまざまざと一つの典型を示している。原子爆弾が、はじめて殺人の武器として登場したことと並んで「ヒロシマ」は、人類がその文学のうちに初めてもった記録文学の一種である。
「ヒロシマ」がすべての読者に与えた人間的な印象、そこに親切な観察者の眼と心が働いているという感銘は、ひとくちにジョン・ハーシーのヒューマニティと云われて来ている。しかし、このヒューマニティという言葉を、ありきたりの心の温さとか柔軟な感受性とかいう人道主義的な枠の中で理解するだけでは足りないと思う。ハーシーが、一九一四年天津で生れ、中国で幼年、少年時代をすごしてからイエールとケイムブリッジ大学で学んだジャーナリストであるということは、ハーシーの人生の見かた、世界のできごとに対する態度に影響している。天津でミッションの仕事をしていたひとの息子として生れ、天津にいるアメリカ人の少年として青年時代の初期を中国に育ったジョン・ハーシーの心は、喧騒な中国の民衆生活のあらゆる場面にあふれ出ている苦力的な境遇、底しれなく自然と人間社会の暴威に生存をおびやかされながら、しかも、同じように無限のエネルギーをもって抵抗を持続してゆく人々の現実が、どんなに強烈な人間生活の色彩・音響・さまざまの状況の図絵として刻みこまれているかしれないだろう。彼は、その人の夢の中に中国の情景があらわれる少数のアメリカ人の一人なのである。そして、ジョン・ハーシーや、パール・バックやアグネス・スメドレー、エドガー・スノウ、ヒュー・ディーンその他見る夢のなかに中国があらわれることのある人々の精神は、東洋にとって貴重なだけではない。アメリカの常識の良識と誇りあるべき民主主義にとって、今日ほど貴重である時期はない。なぜなら現代のアジアは何かの権勢によって単に処理されるべきところとして存在しているのではないのだから。
 ジョン・ハーシーが、天津に育っている外国人の少年として子供時代から周囲の生活を観察し、それを、あるままに理解しようとして来た心の習慣は「ヒロシマ」の成功の可能をもたらしている。「ヒロシマ」にたたえられているヒューマニティは人間の不幸、悲惨がどういう程度のものであり得るかということを深く理解している一人の男が、その目にあった人々によって語られる物語をきき、そこにあった状況としてこの真実性とそのような状況にぶちこまれて生きるために闘った人間の真実――ヒューマニティを尊重して正直にそれを整理し記録しているところから生れている。その過程でハーシーは、日本人の習慣的な感情、天皇というものに対して植えつけられている錯覚的な信頼の表現などさえも、切りすてていない。(頁一〇四―一〇五)
 新しい文学を語るとき、作者のヒューマニティーがどのような角度で題材そのものの人間性に結合してゆくかという点――結晶点が、注意ぶかく社会的にとりあげられていいと思う。
 第二次大戦中、アメリカの前線報道員として命をおとしたアニー・パイルのほんとに民衆の友としての働きかたは、これも現代のヒューマニティーの花であった。アニー・パイルも、こんにちの階級社会の紛乱とそのわれ目におちこむ多数の人々の不幸、不幸になってはじめてその人にとってその不幸の性質が理解されるような不幸について、深い理解と同情をもつすぐれた人々の一人であった。そして、一握りの人間が、決して自分の靴の底皮をぬらすことなくともかく生きていなければならない人々の大群を不幸に追いこんでいる現代の戦争というものの本質について深く知っていた。
 ハーシーの「アダノの鐘」にもこの感情が主調をなしている。ジョン・ハーシーという人にあらわれているアメリカのプラグマティズムのプラスの面が、この作品に人間らしい生命をふきこんだ。天津に生れ育ったアメリカ人のハーシーが「アダノの鐘」の主人公としてイタリー系のジョボロ少佐をアダノの市に見出していることには意味がある。ハーシーにとって、アメリカが国際的国家であることをよろこび得る理由は「ジョボロ
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