「ゴーリキイ伝」の遅延について
宮本百合子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三六年十二月〕
−−
私が、ゴーリキイの評伝を一冊にまとめて見たいと思った動機は二つあった。一つは、どちらかというと外部的な事情であった。
ゴーリキイが亡くなった後、私は、数篇の感想や評伝的なものを書いたのでそれをきっかけとして、一冊の本にまとめたら読者も或はゴーリキイを理解する上に幾分の便利をされるのではないかと思ったことであった。
もう一つの理由は、ゴーリキイが偉大な作家であるということが一般の通念になっているために、そこから二つの態度が生じている。その一つは、ゴーリキイを無条件にプロレタリア作家の先達であり、父であると見る態度であり、他の一つは、それに対してやや皮肉に、ゴーリキイが偉いというのは成程そうであろう、だが他にもっと偉い作家というのは何人かいる。何もゴーリキイがなくたってやってゆけるのだし、自分らが、ゴーリキイの真似をしないだっていいのだ。ゴーリキイはゴーリキイだ。そういう態度である。この二つの目立つ傾向は、例えばゴーリキイを記念するために多くの人々が執筆したごく短い感想の中にも看取された。
私は、そのいずれもが、ゴーリキイ自身の発展の意義や彼と新しい歴史的世代の文学の生長との関係を、正当にとらえていないことを感じた。又、或るひとの感想の中には、ゴーリキイの盛大な葬送の光景を写真で見てプロレタリア作家としての幸福を思い、小林多喜二の不幸な生涯の終りを思いくらべた、何という違いであろう、と感慨がのべられており、その比較などもつよく私の心を打った。
私には、こういう幸福、不幸の対比がそれを書いた人自身が自分の生き方、闘いの外部的な表れかたの形の判断の上にも適用するのであろうと思い、不安を感じた。
何故なら、新しい歴史的世代がそれぞれの事情の中で、どうしても経て克服してゆかなければならない困苦、艱難の形は、他のより進んだ事情にあるところと比べて見れば、そこではもう過去になっている犠牲、献身、努力の形態をもって現れて来るのである。
ゴーリキイの生涯の結びと小林の生涯の終りとは、だから、人類の歴史的な発達の展望の上に立って眺めると、決して本質的に幸福、不幸と分けられる種類のもので
次へ
全2ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング