のではないかと思う。
 日本型の文化躍進の特徴は、日本の社会が明治以来不具のまま置かれて来た社会機構全般の後進性に伴っていて、奥ゆきなく、反射的で、真の意味で自立した人間の文化としての伝統を摂取し、それを生かしてゆく強靭な理性の弾機《ばね》をもち得ないで来ている。皮相の形式的な適合性をもって来たが、摂取と創造との力は薄弱であった。

 現実の一例として、再び自分の手紙の場合について考えて見よう。
 ここに、一人の知識人が、理性に立った社会判断の故に治安維持法にふれて、自由を奪われ、獄中生活をしている。その妻も、文学の活動について同じような困難に面しながら、心からその良人の立場を支持し、その肉体と精神とを可能な限り健全な、柔軟性にとんだものとして護ろうとして、野蛮で、恥知らずな検閲の不自由をかいくぐりつつ話題の明るさと、ひろさと、獄外で推移しつつある世態とをさりげない家族通信の裡に映そうと努力したことは、その筆者が誰であり彼であるということをぬきにして、一見消極であるが、真の意味では積極的な日本の文化野蛮との闘いの一例であった。何百人、何万人の妻や親、同胞が、それぞれの形でそういう闘いを
前へ 次へ
全10ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング